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社会教化事業の指導者:中村是公の親友松井茂

 先に漱石の作品に登場する「カーライル」「米山保三郎」「厭世」「英雄」の語をたどって行くとショーペンハウアーに突き当たると述べたが、じつは「中村是公」をキーワードにたどって行くと、ある警察官僚に突き当たる。

 漱石は鈴木三重吉宛書簡で「廣島のものには僕の朋友が少々ある昔は大分つき合つたものだ。」(明治三十九年二月十一日付鈴木三重吉宛書簡)と述べている。

 漱石には広島県 出身者に親しい友人が多く、その一人が親友中村是公であったということになる。

 じつは、漱石の親友として有名な中村是公には、漱石と出会う前からもう一人 の親友がいた。

 それは松井茂(まついしげる:一八六六―一九四五、穂積陳重・穂積八束の指導を受けて警察学に感心を抱き警察官僚となる。釜山理事庁理事 官、韓国内部警務局長、静岡・愛知県知事、警察講習所長などを歴任。金鶏間祇候。貴族院議員。財団法人中 央社会事業協会理事、社団法人赤十字社理事、警察協会副会長、大日本武徳会評議員、財団法人中央教化団体連合会常任理事、財団法人皇民会長、国民精神総動 員中央連盟理事、選挙粛正中央連盟理事、大日本警防協会副会長。財団法人日本弘道会、財団法人労働者中央教育会、財団法人中央義士会、日本安全協会、大政 翼賛会にも関与した)である。

 警視総監や朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長などを務めた丸山鶴吉(まるやまつるきち:一八八三―一九五六、内務官 僚)によると、「松井茂先生」は「警察消防の権威者であり、社会教化事業の指導者」(松井茂『松井茂自傳』松井茂先生自傳刊行會、一九五二年)であったと いう。

 この社会教化事業の指導者松井茂と中村是公とは、広島中学校時代の同級生であった。

 松井茂は一八八一年(明治十四)三月ごろを振り返り「同級生としては 浅田榮次、谷口與四郎、柴野登一(後の中村是公)、末森鹿之助、田中國吉、深町儀七郎等があつた。」と記し、広島中学時代の是公について「柴野登一と云つ た後の中村是公君は余り勉強家ではなかつたが、活発で小事に齷齪せず既に将来を嘱目せられて居つた。」と回想している。

 『松井茂自傳』によると、松井茂は「明治十七年九月首尾よく大学予備門の入学試験に合格した。」という。

 つまり夏目漱石や中村是公と同期の合格ということになる。

 その後、松井茂は「最も悪いことには飲酒の弊に陥つた為め遂に胃腸を害し著しく身体の健康を 損ねたので、結局明治二十年六月の進級試験には、不勉強の数学が累ひして一年現級にとどまるの余儀なきに至つた。」という。

 漱石と是公の留年が一八八六年 (明治十九)であったことから、一時期松井茂の方が先輩になった時期があることになるが、明治一八八七年(明治二十)以降は、松井茂、中村是公、夏目漱石 は再び同輩となり、一八九三年(明治二十六)の大学卒業まで同輩であった。

 松井茂の思い出も漱石と重なる部分がある。「余等の一校時代は前記の如く上に木下名校長を戴き盛んに尚武の気風を涵養し、或は端艇の練習に或は陸上競技 に大いに活躍したものであつた。」「余は撃剣少々、端艇時々、といふ位で格別出色のこともなかつたが、親友中村是公君を始め多数の学生は、見事な腕前であ つた。」と、親友中村是公の端艇の腕前について、松井茂も漱石同様の記述をしている。

 三人は、同じ空間に存在したのである。

 松井茂は親友中村是公との思い出について以下のように語っている。「明治二十五年の夏の事であつたが、―中略―中村是公君の兄君の宅に招かれて酒盃を交 換したが、談偶々剣舞の事に及び、余は其の座に有り合う刀剣を以て真剣で剣舞をやらうと言ひ出した。勿論酔の致せる業であるが、中村は刀を渡すまいと争ふ うち何かの拍子で自ら指を傷けた。余は泥酔其の極に達し中村が帰途を促しても之に応ぜず盛んに反抗したので、中村は余を抱いて余の自宅まで同行、庭先に送 り届けて呉れたのであるが、其の時出迎えへた母は中村が指に負傷して居るのを見て大いに驚いた。」と。

 今でいえば、飲酒しての傷害事件である。

 この事件の「翌日中村是公は見舞方々やつて来て、母に対し『茂さんはなかなか東京に 於ては御勉強で、酒などに酩酊されることはありません』と弁解して呉れたが、母は大体是公其の人を信用せず『あの眼附きでは……』と云ふ訳で一向効能がな く、問題は遂に重大化」したという。

 松井茂によれば、「之等が動機となつて後年永く中村と親交を続ける事となつた」という。

 松井茂は、学生時代に広島県出身者の会を作ることに熱中しており、広島県出身の中村是公とともにいろいろ活動している。

 その一つに修道館という広島県出 身者の寄宿舎がある。

 松井茂は「広島県友会の盛衰の鍵は、一に之等学生気風の推移如何に至大の関係を有したもので、勢の赴くところ余等の率先唱導により学 生会宿所(後の修道館)創設の気運を醸成したもので、今から考えれば学業をそつちのけに、団体的行動に没頭したのは聊か脱線の譏を免れないけれども、其の 精神に於ては大いに買つて貰う丈の値打があつたと思ふ。」「修道館と余との因縁も実に深いものがある。謂ふまでもなく之は我が広島県出身学生の東京に於け る寄宿舎で、かの広島県友会精神の延長とも見るべく、之が創立には余等が専ら微力を尽くしたもので、中村是公君の如きも余の禁酒以来最も親交を深めたので 率先余の計画に共鳴し、確か明治二十五年十一月頃と記憶するが、初めて本郷区龍岡町臨麟祥院(俗に枳殻寺と称す)に家を構へたのであつた。」と述べてい る。

 松井茂は警察に仕官後もしばらくは修道館から出勤したというから、かなり熱心に活動したようである。

 大学卒業後、大学で研究生として警察の研究を続けながら警視庁試補の身分であった松井茂は、警察への仕官について中村是公に相談している。

 そして警視庁 初登庁の際は、「明治二十六年十一月九日午前十時、余は親友中村是公君より借用のフロツクコートを一着に及び、悠然として警視庁に到り、警視属を拝命、四 級俸を給せられ(但し名義のみ)第三部第一課勤務を命ぜられた。これぞ余が警察入りの第一歩だつたのである。」と、中村是公からフロックコートを借りて初登庁したという。

 また松井茂は、中村是公が東京市長になったおり「其の第四女を上原元帥の令息(今の貴族院議員上原七之助子爵)に嫁せしむるに当り、余が進んで媒酌の労を取つた」と述べている。

 さらに、一九一九年(大正八)の松井茂の母の葬儀に際して中村是公は、男爵船越光之亟、今泉喜一郎とともに友人総代を務めた。

 このように漱石の親友中村是公は、松井茂と生涯を通じて親友であったのである。

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