「自治と警察」:「人類自然の服従的の性質」による服従の習慣の形成
漱石が『吾輩は猫である』の第十一話で「二十世紀の人間はたいてい探偵の ようになる」(探偵化論)と予測したことが、漱石の死後現実となる。
それは松井茂の警察に関する論稿で確認することができる。
不思議なことに松井茂の警察国家に対する論調が、漱石の生前と死後で一八〇度変わるのである。そして「忠恕」の「恕」(おもいやり)に源泉があるとする漱石の公徳観と、「忠」に源泉 がある松井茂の公徳教育(広義の警察教育)との違いが、鮮明になって行く。
一九〇五年(明治三十八)に著した「警察と助長的設備」(『警察協会雜誌』第五六号、一九〇五年)で松井茂は、大日本帝国憲法「第九條中の謂ゆる、『臣民の幸福を増進する云々』の規定が、則ち助長的の事務」であり、「第九條中の謂ゆる、『安寧秩序を保持し云々』とあるは、則ち警察事務」であると、「助長的事務」と「警察事務」を定義した。
ここでいう「助長的事務」とは「第一は人事、 第二は衛生、第三は経済、第四は教化、第五は救貧」のことである。
さらに松井茂は「助長的事務」を「有形的の助長事務」と「無形的の助長事務」の二つに区 分している。それによれば、「有形的の助長的事務」というのは、有形的(物質的)に臣民の幸福を生じさせるもので、「公立の学校とか、寺院とか、博物館、図書館、鉄道、郵便、道路、河川、港湾」などが「有形的助長的設備」にあたる。「無形的の助長的事務」というのは、教育、宗教など「精神的の感化」によって、幸福を増すものである。
さらに、松井茂は「国家は、臣民の幸福を増進する為に、臣民を強制することは出来ないのであります、要するに助長的事務の如き、積極的の事務は、強制的 でありませぬ、之に反して、警察行政と云ふものには、一種の強制が必要であります」と「助長的事務」と「警察事務」との差異を明らかにした上で、「然るに昔時の国家は、臣民の幸福を増進する為に、之を強制すると云ふやうに考へまして、甚しきは助長的事務のことをば、増福警察と迄称して居りましたので、当時の国家は、一にも二にも警察を標榜として居りまして、警察国家なる名称さへ存在して居つた位であります」と、「警察国家」を批判した。
ところが、漱石の没後の一九一七年(大正六)に著した「警察行政の根本義(上)(下)」(『警察協会雑誌』第二〇七・二〇八号、一九一七年)で松井茂は、「人類自然の服従的の性質」を根拠に警察国家に対して肯定的な解釈をする。
松井茂は、「欧州に於ては古昔警察万能の時代、所謂俗に警察国家と称する時代があつた」「警察国家とは抑も何であるかと云ふと、普通一般に人とは単に警察権を以て民衆に圧制を加へたるものであると申しますが、決して徒らに人民に強制すると云ふ様なる簡単なる言葉を以て、之を評することは出来ない」と主張 している。
松井茂は、「人類自然の服従的の性質」があり、「警察権に服従し安寧秩序を維持すると云ふことは、国民の先天的自然義務で」、「人類自然の服従 的の性質」が観念の土台となっており、「決して警察国家は圧制すると云ふの根本的観念から生じたるのでないので、国民が自然に服従しなければならぬと云ふ の観念を有せるより、自然に此に至りたのである」というのである。
この「人類自然の服従的の性質」を根拠に松井茂は、「国家は人類の、此自然的の義務を有して居る者に対して、権力を応用して之を強制して、警察権を実行するに過ぎない」という。「人民が警察に対し一般に服従する所の義務を自覚せる事は、恰も兵役の義務や、納税の義務などゝ異ることはないので、是れは国民の自然的の義務と称すべきものである。此観念が警察国家の思想の根蔕である」と、警察に対する服従の義務が警察国家の土台であるとした。
さらに「独逸では オツト・マイエルと云ふ人が、警察の自然的義務の事を唱へ、我邦に於ては故の穂積八束博士の如きも、此説を採用されたる次第なるが、私共も夙に独り実際上 の必要よりしてゞなく、虚心に考慮しても、其説の適当なる事を感じて居る」と、松井茂は菊池謙二郎や和辻哲郎が批判した穂積八束の論を引用して、警察に対する服従の義務があるとしているのである。
そして、松井茂は公徳と警察との関係を例示して、自治と警察について説明している。
松井茂は「警察と云ふものは、人民の当然有すべき服従的義務である」 として、「これは権力関係の方面より申述たる次第にて、臣民の側より警察行政の何物たるやを観察するときは、自治と云ふことが根本義である」という。
つま り「人類自然の服従的の性質」は権力関係から見れば「警察」(人民の当然有すべき服従的義務)で、「人民の当然有すべき服従的義務」を臣民から見れば「自 治」ということになるという。
そして「自治と警察との関係の密接なることが、最も文明時代の要求である」として、この自治と警察との関係とを公徳と違警罪(旧刑法で、拘留・科料にあ たる軽い罪の総称)の関係によって説明し、「公徳が完全に行はるれば、違警罪の規定は不必要となる、此意味に於て自治の完全なる所には、警察の干渉は不必 要なのである」と。つまり「公徳」(忠が源泉)を「自治」と呼んでいるのである。「自然に服従しなければならぬと云ふの観念」の実践があれば、警察 (「人民の当然有すべき服従的義務」)は不要になるというのである。つまるところ、服従のあるところには強制はないのだ。
松井茂は、「此意味に於て警察協会などが率先して、警察の何物たる事を世人に紹介して、謂ゆる国民警察の実行を期し度きものである」と、このような自治 と警察の観念を国民に注入するために警察協会があるというのである。松井茂によれば「警察」は「人民の当然有すべき服従的義務」であり、「自治」とは公徳 の完全な実施、つまり「自然に服従しなければならぬと云ふの観念」の実践、完全な服従なのである。松井茂が主張する「自治と警察」は、「人類自然の服従的 の性質」(「自然に服従しなければならぬと云ふの観念」の実践と「人民の当然有すべき服従的義務」)を土台とした「自治と警察」の思想という意味なのであ る。
さらに松井茂は、「従来我邦に於ては巡査は徒らに恐るべきものであると云ふやうな、古い思想がある故、此点は速に打破しなければならぬ、国民は喜んで巡査の職務を援助するの気風を起さねばならぬ」と主張し、「我邦に於ては余りに警察と地方民が没交渉である、自治体や小学校や 青年会や在郷軍人会などの席に於て、自治と警察との関係に付之が思想を注入して置く事は、警察事務の執行上頗る必要の事である。」と、「国民警察」の実現 のために自治体、小学校、青年会、在郷軍人会を利用し、「人類自然の服従的の性質」(「自然に服従しなければならぬと云ふの観念」の実践と「人民の当然有 すべき服従的義務」)を土台とした「自治と警察」の思想の注入を構想した。
この「自治と警察」の思想の注入は、松井茂を象徴する左側通行の習慣の形成という政策と同様の言い方をすれば、服従の習慣の形成ということになるだろう。
このように松井茂は、一九〇五年(明治三十八)に著した「警察と助長的設備」では警察国家を否定したが、漱石の没後の一九一七年(大正六)に著した「警 察行政の根本義(上)(下)」では、「人類自然の服従的の性質」(「自然に服従しなければならぬと云ふの観念」の実践と「人民の当然有すべき服従的義 務」)を根拠に警察国家を肯定し、「人類自然の服従的の性質」を土台とした「自治と警察」の思想を注入し、国民警察を実現しようと構想したのである。
松井茂の警察国家に対する評価は、あたかも、漱石の死によって「風刺による文学的な懲戒的効果」から解放されたかのように、漱石の生前と死後で一八〇度変わるのである。