「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」by夏目漱石:「番人呼称問題」と「武士」
漱石は『吾輩は猫である』で「もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を 受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して 挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を 罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。」(第十話)と書いている。
「探偵」は「良民が金を出して雇っておく者」なのである。
さらに漱石は自らの生い立ちを連想させつつ、「この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上の御威光となると非常 に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から云うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ているのだが、実際に臨むとい やにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子に酬ったのかも知 れない。まことに気の毒な至りである。」(第九話)とも書いている。
特に「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ている」という部分が気になる。
現代人から見れば何でもない表現だが、この一言は大日本帝国憲法下での警察官に対する考えとしては、あってはならないことであった。
また一九〇五年(明治三十八)当時、「主人のおやじはその昔場末の名主であった」世代がいう「番人」には、現代とは異なる意味あいがある。
特に江戸当た りで、警察誕生の歴史を知る者にとってはなおさらである。
漱石の父は明治維新以降は警視庁に出仕し、漱石の一番上の兄も警視庁で翻訳の仕事をしていた。漱石の父は、江戸時代の警察的仕事が英米型警察制度に変わり、その英米型警察制度が大陸型警察制度へとめまぐるしく変わっていく過程を目の当たりにしたことになる。
漱石は、『文学評論』の「十八世紀の状況一般 五、倫敦 辻番」で、「日本で御一新前にあつたと云ふ辻番の様なものがあつた。(巡査ではない。)ウオツ チマンと称する奴である。是は矢張り番太郎の如く貧乏人から募集した者で、六尺棒を突いて夜中巡回して歩く。日本では『火の用心』とか何とか云ふのだが、 倫敦では時刻を報じながら又天気模様を怒鳴りながら歩いた『十一時すーぎ雨ふーりの夜―』と云ふ様な事を申しながら町内を廻つて来る。番太の小屋は極く小 さな箱小屋で、交番より小さかつたと思はれる。時々いたづら者が居つて、辻番が居眠りをして居る所を見済まして、箱ごとひつくり返すと云ふ様な騒ぎが起 る。」と、十八世紀のロンドンの「ウオツチマン」(辻番)を説明するのに江戸時代の江戸の「番太郎」や「番太」を例に説明している。
江戸時代の「番人」というのは、『明治初年の自治体警察 番人制度』(東京都、一九七三年)にあるように「元来町の番人と呼ばれるものは、江戸時代においては、町地の木戸番の番人や武家地の辻番などで、甚だ卑しく見られており、木戸番の番人は、『俗に番太郎または番人』と呼ばれ」ていたのである。
この江戸時代の番人とは別に、明治初年に番人制度があった。
1873年(明治六)1月、政府は、東京府に番人を設置すると、「全国一様に番人と改めるよう六年六月二十四日達第二百二十五号で通達し」、番人の職務を行うものは、すべて「番人」と改称するよう命じた。
この明治時代の番人制度はイギリスな どの自治体警察をモデルにしたものであった。そして、解放令後ということもあり、この番人制度の番人にはあらゆる身分の人々から構成されていた。
しかし、江戸以外にも 「番人」が蔑称であった地域もあり、江戸時代に差別されていた人々と同一視されることを懸念する者たちがおり、蔑称との一致から「番人呼称問題」が起こっ た。
日本警察の父川路利良も番人と同一視されることを嫌った。
川路利良は「警察制度につき建議」(一八七三年)のなかで「本邦尚武士あり。然るに士を閣いて 用いず。」「所謂番人ナル者、卑弱ノ傭夫之ヲ以テ輦轂ノ下ヲ鎮ズルハ、体裁ヲ失ウ」と述べ、この建議の「大意は、総て警保権限を分明にし、番人を排し邏卒 を用ひ、民費を省き人身を安ずるを要す」というものであった。
その後、川路は「警察官は武士である」と喧伝しはじめ、それとともに警察組織から被差別者が 排除されていった。
警察誕生の歴史を知る者にとって「番人」という語を使った警察批判は、極めてきつい一言なのである。
じつは戦前の警察研究の第一人者とされる松井茂の警察史には「番人」と「番人呼称問題」の詳しい説明が欠けているのである。
さらに、一九〇二年(明治三十五)の日本弘道会四谷支部会での「公徳と警察」と題した講演で松井茂は、「我邦の警察を欧米の警察などと混同し殊に亜米利 加主義などを注入して人民の為の巡査であるから巡査は公僕であると主張する人があるこれは非常に間違つて居る」「日本の警察官を亜米利加の様な者と誤認さ れては大変の事」と述べているのだ。
その松井茂に「番人呼称問題」の経緯を知った上で「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」と言ったらどうだろうか。
漱石の父が江戸時代に 名主を勤め明治維新後警視庁に出仕したことや漱石の一番上の兄が警視庁の翻訳係をしていたことを考えると、漱石が明治初年の「番人呼称問題」を知っていた 可能性は極めて高いのである。
いや、漱石が警察を風刺していたとすれば、当然、松井茂の『日本警察要論』(警眼社、一九〇二年)を批判するくらいの知識は もっていたはずである。
このように漱石の「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」という一言は、松井茂を暗示するばかりでなく、明治初期の警察制度の変遷の要因 と警察組織の内実をも批判する極めてきつい一言なのである。
また、漱石が『吾輩は猫である』で、警察関係者が「警察官は武士である」と喧伝するとともに、 警察組織から被差別者を排除していったことをも批判していたと考えれば、漱石が島崎藤村の『破戒』を絶賛した理由が容易に理解できるのではないだろうか。
それにしても、漱石が絶賛した自然主義文学が、国木田独歩の短編『巡査』と島崎藤村の『破戒』というのもなにやら暗号めいていて興味深い。