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非婚論:穂積陳重の「婚姻法論綱」「離婚法比較論」「夫婦別居法比較論」

 漱石は『吾輩は猫である』の第十一話で非婚化する(非婚論)と未来予測している。この漱石の非婚論と松井茂の恩師穂積陳重の婚姻に関する論稿が類似している。

 穂積陳重は「婚姻法論綱」(明治十四年)「離婚法比較論」(明治十八年)「夫婦別居法比較論」(明治十八年)などの論文を書いている。

 「婚姻法論綱」では、婚姻の歴史を「婚姻者の数」「婚姻の方法」に分類して論じている。まず「婚姻者の数」については、婚姻は「第一 太古 酋属共同婚 の時代」「第二 上古 数夫一婦婚の時代」「第三 中世 一夫数婦婚の時代」「第四 近世 一夫一婦婚の時代」と進化していくという。穂積は「余我邦の現 状を考ふるに、方今婚姻歴史第三世より第四世に移らんとする変遷時期に当るものゝ如し。」として、「猥褻の風を去り、公平なる両性交際を勧めば、一夫数婦の俗自ら廃棄し、婚姻進化最高点なる一夫一婦婚の域内に進入するの日や、期して待つべきなり。」と、日本が一夫数婦婚から一夫一婦婚の過渡期と指摘している。

 次に「婚姻の方法」に着目すると、婚姻は「第一 掠奪婚の時代」「第二 上古 売買婚の時代」「第三 中世 贈与婚の時代」「第四 近世 共諾婚の時 代」と進化していくという。そして穂積は「婚姻進化の最高点を占め、婚姻沿革史中採集に発達する者は共諾婚にして、方今欧米文明諸国中に行はるゝ所の制度 是れなり。」としている。この「共諾婚」の起源については「第一、婦人を財産視するの弊風廃棄せしなり。第二、各自独立の精神発達せしなり。」と述べている。

 日本については、「我國婚姻進化の度を推測せば、必ず方今我國の婚姻方法は、婚姻歴史第三世に在りて、贈与婚の時代に当る者たるを容易に発見するを得べ し。而して、今我邦婚姻法を改良し、贈与婚の時世を去て共諾婚に遷らんとせば、先づ男女有別の悪弊を破りて、公正の交際の道を開き、婦女の教育進むに随ひて、漸々其交際の区域を広めば、竟に共諾婚の恵沢に浴するの地位に至るべし。」と法政策と習俗の弊を改良し、社会進化を遷移させようとの考えを示している。

 「離婚法比較論」(明治十八年)では、「我輩が離婚の法理を論究するに当りては、常に必ず道徳政治宗教の三論拠を参酌するを忘る可らざるなり。」とし て、離婚法を「(一)自由離婚の法律」「(二)離婚禁止の法律」「(三)制限離婚の法律」と三つに大別してその論拠について論じている。そして、離婚法の 進化は「第一 自由離婚の時代(掠奪婚、売買婚、或は贈与婚の時代と符号す)」「第二 離婚法禁止の時代(贈与婚或は共諾婚の時代と符合す)」「第三 制 限離婚の時代(共諾婚の時代と符合す)」「第四 自由離婚の時代(共諾婚の時代と符合す)」という順で進化するとしている。

 穂積は「第一世の自由離婚法には、男子のみ自由離婚の権ありて、女子は毫も自由ある事なし。」「第三世の制限離婚法に至り、始めて女子より離婚を請求す るの権あるに至る。」「離婚法最高の程度に達し、第四世の自由離婚法を用ふるに至り、始めて男女共に自由離婚の権を得るに至る」として、「第四世の自由離 婚法には、配偶者双方共に平等の自由離別権を得るに至る。以是観之、離婚は自由離婚法に始まり自由離婚法に終ると雖も、第一世の離婚法は真正の自由離婚に 非ずして、第四世の離婚こそ真正の自由離婚とは称すべきなり。」と述べている。

 「夫婦別居法比較論」(明治十八年)で穂積は、古代には「自由離婚法」が行われていたが、キリスト教(カトリック)の普及によって「婚姻不解主義」が行われ、離婚が出来ないという弊が起こり、それを補うために「(一)結婚を 無効となす。(婚鎖解除)」「(二)別居を許す。(寝食の離別)」という方法が行われるようになり、プロテスタントが起こって後、別居法は「(一)代用主 義。(離婚禁止法の時代に行はる)」「(二)並用主義。(制限離婚法の時代に行はる)」「(三)仮処分主義。(制限離婚法及自由離婚法の時代に行はる)」 という順で進化したと述べている。

 以上のように穂積陳重は、「婚姻法論綱」で婚姻の進化が「共諾婚」による「一夫一婦婚」で法進化の最高点に達する、「離婚法比較論」で「配偶者双方共に 平等の自由離別権」がある「自由離婚法」で法進化の最高点に達する、「夫婦別居法比較論」「仮処分主義」で別居法の法進化の最高点に達するなどと述べている。

 穂積は「共諾婚」の起源を「各自独立の精神発達せしなり」と指摘しており、共諾も自由離婚も離婚の仮処分としての別居も、その起源を「各自独立の精神発達せしなり」ということに求めることができる。

 穂積の「各自独立の精神発達せしなり」という指摘は『吾輩は猫である』の未来予測の「当世人の探偵的 傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因」(探偵化)という根拠と一致している。

 さらに婚姻法の進化が一夫一婦婚で終わるという必然性はなく、社会進化 の結果、婚姻が困難になることも十分考えられるのである。

 つまり、婚姻法が不要になる時代が来るということも考えられるのだ。

 そのように考えると、漱石が 『吾輩は猫である』の非婚論で「各自独立の精神発達せしなり」という根拠による婚姻法の進化をさらに進めて考え、探偵化(近代化)を批判したといえるのである。

 このように、漱石の非婚論は穂積陳重の法律進化論における婚姻法の進化の延長線上にあるといえる。

 『吾輩は猫である』の非婚論は、松井茂の恩師穂積陳重の一連の論稿に繋がっている。つまり、穂積陳重を介してではあるが、非婚論も松井茂を暗示しているのである。

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