「からかい殺す」世の中に
一九九八年(平成十)に自殺者が急増して以来、自殺者数の高止まりが続いた。『吾輩は猫である』の「からかい殺す」世の中になるとの未来予測が見事に的 中したといえるだろう。
「からかい」というのは、自分の得にもならないのに他人が苦しむ姿を観て楽しむということであるから、「他者の不快を欲する悪意」 が動機になっている行為といえるだろう。この行為が現在の日本には溢れているのだ。
NPO法人ライフリンク作成の「自殺実態白書2008」を読むと、「自殺の危機経路」の被雇用者の個所に①「職場の人間関係→うつ病→自殺」②「職場の人間関係→自殺」③「職場のいじめ→うつ病→自殺」と書いてある。「危機連鎖度が最も高いのが『うつ病→自殺』の経路」ということらしい。
が、「職場のいじめ→自殺」という経路がないことが気になる。「職場の人間関係→自殺」に含まれるのだろうか。
「『自殺の危機要因(68 項目)』一覧」は、「警察庁の『自殺の概要資料』で使用されている52 要因をベースに作成」したということだが、①「職場の人間関係→うつ病→自殺」②「職場の人間関係→自殺」③「職場のいじめ→うつ病→自殺」は「職場のい じめ→自殺」と一つに括れそうである。自殺者本人または周囲の人間が、「職場の人間関係」と受けとめるか「職場のいじめ」と受けとめるかによってニュアン スが変わるだけで、被雇用者の自殺のほとんどが「職場のいじめ」が原因の自殺といえそうである。
「職場のいじめで自殺しました」とは、本人も周囲の人間も、なかなか認めたがらないものである。
漱石は『吾輩は猫である』(第十一話)で「世間がいじめ殺してくれる」「世間からなし崩しにいじめ殺され」と述べ たが、現代の日本人は、まさに、なし崩しにいじめ殺されているといえる。
自殺の主要因となっている「いじめ」は、マリー=フランス・ イルゴイエンヌによれば、モラル・ハラスメントという精神的暴力である。
モラル・ハラスメントは、①相手を惹きつけ、②自由を奪いながら影響を与えてい き、③支配下におき、④被害者がその支配に反抗すると、モラル・ハラスメント的な暴力をふるいはじめる(マリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラ スメント』高野優訳、紀伊国屋、一九九九年)という構造となっており、モラル・ハラスメントの攻撃には「コミュニケーションの否定」という共通した特徴があるという。
モラル・ハラスメント(精神的暴力)は、学校における「いじめ」ばかりか、上司によるパワー・ハラスメント、セクシャル・ハラスメント、リストラの際の精神的なプレッシャー、職場内いじめ、DV等々、すべての精神的暴力をカバーできる概念である。
ブラック企業を特徴付けるのも、モラル・ハラスメントの有無であろう。
このモラル・ハラスメントの構造が『吾輩は猫である』(第十話)で漱石が述べている探偵化 の特徴と一致する。
つまり①「嘘をついて人を釣る」(相手を惹きつけ)、②「先へ廻って馬の眼玉を抜く※特定の人物の先に廻って、特定の人物を出し抜くこ とと考えると、特定の人物の自由を奪うといえる」(自由を奪いながら影響を与えていき)、③「虚勢を張って人をおどかす」(支配下におき)、④「鎌をかけ て人を陥れる」(被害者がその支配に反抗すると、モラル・ハラスメント的な暴力をふるいはじめる)となる。
恐ろしいことにモラル・ハラスメントの構造を、①良好なイメージを宣伝し、相手を惹きつけ、②心理学を駆使しながら影響を与えていき、③イメージを操作してイメージどおりの行動をさせ、④被害者がイメージに反する行為をすると、ダメージコントロールをはじめる。と言い換えても意味が通じるのである。
つまりCR戦略・CI活動による宣伝、心理学的な監督、CR戦略・CI活動によるイメージの操作、危機管理論における危機管理広報を一人の人間が実践すれば、モラル・ハラスメントの加害者が出来上がるのである。
このモラル・ハラスメントの加害者には特徴があり、「自己愛性人格障害」の患者が加害者になることが多いという。
DSM-IV(「精神障害の分類と診断 の手引き 第4版」、一九九四年)によると、「自己愛性人格障害」というのは、「誇大な感覚、限りない空想、特別感、過剰な賞賛の渇求、特権意識、対人関係における 相手の不当利用、共感の欠如、嫉妬、傲慢な態度のうち5つ以上があてはまることで示される」という。
不思議なことに、心理学的な監督によって警察官の面従腹背がないことを前提にすれば、CR戦略・CI活動で作ったイメージを信じてイメージに合うように職務を行っている一般的な警察官に、ほとんどの項目があてはまってしまうのである。
DSM-IVの「自己愛性人格障害」の項目をあてはめてみると、
「誇大な感覚」「限りない空想」「特別感」については、CI活動で作った「警察(官)は 正義の味方である」「警察(官)は正義である」「警察官は武士である」等々のイメージを現実と信じていればあてはまる。
「過剰な賞賛の渇求」については、 CI活動で職務として「賞賛」を得るように組織的に常に宣伝していることがあてはまる。
「共感の欠如」については、違反者等に共感すると仕事にならず、人 間一般が共感すべき場面でも職務上共感できないことが多いことがあてはまる(すでにここで5つあてはまる)。
「対人関係における相手の不当利用」について は、『新しい監督者論』に注意すべき点が事細かに書いてあり、一般的に行われていると思われる。
「傲慢な態度」については、モンボイスが警察官は「独善的 に見えることを避けることが非常に困難」と指摘している。
「嫉妬」については、『新しい監督者論』に「嫉妬の自制」の項目があり「嫉妬」が一般的に存在することがうかがえる。
「特権意識」については、裏金での飲食や天下り等を当たり前と考えている場合等々があてはまるだろう。
このように、CR戦略やCI活動で作られた「警察のイメージ」が全ての警察官にあてはまると仮定すると、警察官は全て「自己愛性人格障害」ということに なる。
ここで一つの推理がはたらく、モラル・ハラスメント(精神的暴力)の加害者とは、CR戦略・CI活動・危機管理論等によって「警察のイメージ」に よって操作され皆警察化された国民なのではないだろうかと。
100年以上も前に、漱石は『吾輩は猫である』で、猫に「愛の法則の第一条」は「自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし」(第七話)と語らせてい る。
それは、まるで現在のモラル・ハラスメント(精神的暴力)の加害者たちの「自己愛性人格障害」的な性格を風刺しているかのようである。