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筒井康隆の「無人警察」は戦後日本の文学作品の中で最もすばらしい作品である。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の探偵化批判(警察化批判)の文脈から、戦後日本の文学作品を再評価するなら、筒井康隆の短編小説「無人警察」が最も秀逸な文学作品と言えるだろう。

 まさに正統派の猫党の文学である。

 筒井康隆の「無人警察」は、猫党と犬党を見分ける指標となる。筒井康隆の「無人警察」を批判したヒトビトはイデオロギーに関わらず、犬党である。

 筒井康隆が「無人警察」で、描いたのは「てんかん患者の差別」ではなく、近未来の警察化した社会であることは、猫党の人々には、簡単に理解できたはずである。筒井康隆の「無人警察」の文脈では、「てんかん患者の差別」をするのは、ロボット警察官であり、機械(ロボット)と区別のつかない警察官であると暗示されている。(「無人警察」に登場する「てんかん患者」の表現については「筒井康隆断筆事件から『蘭学事始』まで」の該当箇所を参照してください。)


 筒井康隆の「無人警察」が教科書に採用されていれば、警察化も多少は緩和できたかもしれない。

 いや、筒井康隆の「無人警察」が教科書に採録されても、『吾輩は猫である』の探偵批判を警察批判と気付かずに、漱石の探偵嫌いとか漱石の暗い部分などと思い込んで、教鞭をとっている国語教師(犬党)が授業をもてば、結果は同じか…。

 戦前に『吾輩は猫である』をはじめ多くの漱石作品が教科書に採用されていても、国民皆警察化したのだから、国語教師(犬党)が教える犬党読みというのは、恐ろしい。おそらく北朝鮮で行われている「教化」や「教養」と同じものだ。

 北朝鮮の「教養」や「教化」は、松井茂や丸山鶴吉が残した大日本帝国流の社会教化運動の名残なのだろうか?

 『吾輩は猫である』を犬党読みせずに、普通に読めば、『吾輩は猫である』が探偵化(警察化)を批判していることは、中学生が読んでも理解できるはずなのだが…。

 『吾輩は猫である』をはじめ国語教科書に採用される漱石作品は、漱石が『吾輩は猫である』などで「探偵」という語を「警察」の比喩として使っていることに気付いてしまう生まれながらの猫党の素養を持った子供たちを発見するためのリトマス試験紙に使われているかのようである。

 きっと、国語教師(犬党?)たちは自身に課された、早期に猫党を発見し、猫党を駆除するという危機管理の任務を無意識のうちに果たしているのだろう。

リートン作:取り調べ室の風景


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