池宮城積宝の『奥間巡査』という短編小説を読んだ。
この短編は、「琉球の那覇市の街端れ」の「特種部落」出身の青年奥間百歳(うくまぬひやあくう)が巡査になるという話で、「大正△年の五月」前後から9月30日(「九月の二十七日」から「四日目」まで)までの物語で、わずか半年ほどの間に、「温順しかった」人間が「巡査としての職業的人間」へと変貌する様子が描かれている。
池宮城積宝は、「特殊部落」の生活について
と、ことさらに悲惨さを強調したりしていない。
この物語の主人公である百歳の本当の悲惨は、巡査になることによって始まるのである。
当初は、
と、百歳の父母は百歳が巡査になることに肯定的であった。
また、同じ「特殊部落」の人々も、
と、百歳が巡査になることを、戸惑いながらも喜んでいた。
百歳は、「大正△年の五月」「奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。」そして、「二、三ケ月は」「平和に過ぎた。」かのようにみえたのだが、百歳の心には大きな変化があった。
と。
巡査講習所(今の警察学校)を出てから「二、三ケ月」もすると、家族は百歳の人間性が変わってしまっていることに気付き始めるのだった。※このブログ風にいえば、警察教養(学校教養と職場教養)で人格が変わってしまったことに家族が気づき始めたということである。
「部落」で祭礼があった日に百歳は、
と、巡査臭ぷんぷんの演説をしたりして、周囲の人々から敬遠され始める。
また、
家族ばかりか「部落」の人々も、
「部落」の人々は、百歳の家へ
のである。
しまいには、
かといって、百歳は、警察組織にも受け入れてもらえないのである。
と。
作者が、「特殊部落」の人々の人間性と「巡査としての職業的人間」の人間性とを対比させるために、わざわざ「特殊部落」の青年が巡査になる設定にしているようだが・・・
現在の警察でも、同僚が拳銃自殺したときに口裏合わせして「拳銃の発射音は聞こえなかった」と証言できるヒトばかりなのだから、「特殊部落」の出身でなくても、「同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来」ないであろうことは容易に想像できるだろう。※兵庫県警には知人にしか公開していないブログで兵庫県警での職務や上司についての感想を書いた女性警察官が処分されている。
警察では、同僚は友人ではなく、密告者なのである。
百歳が巡査を拝命していたころの沖縄県警も、今とそう変わりがあったようには思えない。
百歳は、
百歳は、孤独感に苛まれるようになっていくのである。
と、
百歳は、「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じ」るのである。
このくだりは、警察学校を卒業し、配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の心情がよく描けている。配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の自殺理由を考える上で大きなヒントになるだろう。※この「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じ」に、職業安定法違反の労働者の募集によって騙されたことの憤りを加えれば、おまわりさん(警察官)の自殺の理由が、より明瞭になることだろう。
そんなおり、
現在とは、社会状況が異なるため、淫行にはならないが・・・、今も昔も、巡査は大人の女性より少女を好むようである。
次の給料日に百歳は、カマルー小のいる廓へ行って、カマルー小に五円を渡す。そして、
と。
百歳は(今風に言うと)風俗に嵌り、給料をつぎ込むようになり、母親に嘘をつくようになる。
もともとは、裕福な生活をしていたが、
百歳は、カマルー小に「強い愛着を感じ」るようになっていくのである。※警視庁のおまわりさん(警察官)に、キャバクラ譲に「強い愛着を感じ」、ストーカーしたあげく、射殺するという事件を起こしたおまわりさん(警察官)がいた。
翌月の給料日にも百歳は、カマルー小に貢ぐ。そして、
と、母に平気で見え透いた嘘をつくのであった。
風が吹き出し、夜には暴風雨になった。
その時、
現代も、お金が欲しかったといって、窃盗や強盗をするおまわりさん(警察官)が後を絶たない。彼らの心情は、百歳が「自分自身が恐ろしくなった。」時の心情と同じものなのだろうか。
この墓地で、百歳は不審な男を見つけ、その男を捕まえる。
巡査部長の事情聴取を聞いているうちに、「初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中」だった百歳の心境に変化があらわれる。
百歳は容疑者が、カマルー小の兄ではないかと思い始めたのである。
百歳は、「特殊部落」の人々の前で
と巡査臭ぷんぷんに述べていたが、窃盗の容疑者が、カマルー小の兄だと確信した瞬間に、
のである。
この短編小説の最後の箇所で、私は、日本警察機動隊軍歌『この世を花にするために』の二番の
という歌詞を思い出した。
今も昔も、おまわりさん(警察官)の仕事に変わりはないようである。
奥間百歳(うくまぬひやあくう)の「恐怖と憤怒」は、道義的同情を欠いたニンゲンになってしまったおまわりさん(警察官)と、じつは、もうそのおまわりさん(警察官)に含まれてしまっている自分に対する感情ではないだろうか?
この感情が、それぞれのおまわりさん(警察官)の性格に動機として働き、自殺する人、無念無想と言いながらただの機械となって生きるヒト、自殺行為としか思えない不祥事を起こすヒト、組織への復讐としか思えない不祥事を起こすヒト、完全に人格が崩壊し人間とは思えない犯罪を犯すヒトなどなどに分かれるだけなのではないだろうか?
池宮城積宝の『奥間巡査』という短編小説は、不可解な不祥事を起こし続けるおまわりさん(警察官)たちの心情を理解する上で、極めて重要な作品である。
大学や高校の先輩のリクルーター(警察官)に警察官に応募するように勧められている方は、
夏目漱石『文芸の哲学的基礎』、池宮城積宝『奥間巡査』、小林多喜二『山本巡査』、筒井康隆『無人警察』を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。※『文芸の哲学的基礎』は小説ではありません。
小説はフィクションに過ぎないと、お思いの方は、原野翹『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』 (岩波書店、1989年)とウォルター・L.エイムズ著・後藤孝典訳 『日本警察の生態学』(勁草書房、1985年) を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。
ま、おまわりさん(警察官)に応募する人は、読書なんかしないんだろうけど・・・