「大和魂はそれ天狗の類か」:「公徳」「警察精神」という暗示
一九二六年(大正十五年)、松井茂が「我が警察界の恩人 法学博士穂積陳重先生」(『警察協会雑誌』) で「先生の著書として世に公にせられたる五人組制度の如き、法律進化論の如き、何れも皆警察に關する材料に富めるものにして、其の末永く斯界に對し、多大 の貢献を與へつつあるのは、今更云ふ迄もない」と述べているように、松井茂は穂積陳重の『法律進化論』や『五人組制度論』の研究成果を応用し、国民皆警察 という社会教化事業を推進したのであった。
一九二七年(昭和二)、松井茂は、堀内文吉が著した『警察心理学』(至文堂、一九二七年)に「序」を寄せて、穂積陳重の「模傚性と予防警察に就て」の功績をたたえつつ、松井茂自身が「公徳教育」「広義の警察教育」「国民警察」「国民皆警察」などと呼んで取り組んだ社会教化事業の理論に言及している。
松井茂は、「本能中警察の最も関係の深いものは、模倣本能であって、タルドは夙にこの事を唱道し、我邦においても、穂積陳重博士は、二十数年前、特に我 邦の警察官に對し、詳細なる意見を発表された。」と述べている。
これは先に述べた穂積陳重「模傚性と予防警察に就て」を指していると思われる。
そして松井 茂は、「國民警察とは、其の根本義としては、國民教化の問題と云ふことに歸する」と「国民警察」とは国民教化の問題であると断言したのである。
このこと は、松井茂が熱心に取り組んだ「公徳教育」(広義の警察教育)や「国民皆警察」が国民教化事業であったことを示している。
さらに、松井茂は「思考問題」と「国民的意志の確立」の必要性について言及し、「思考問題としては、―中略―個人思想としても、又社会思想としても、一 として警察問題に関係せざるものはない。尚、世論とは何ぞやの問題の如きも時節柄国民警察の方面よりも、特に見逃すべからざる緊要事項である。」とし、 「自由尊重の現代に於いて、意志の何物たることは、道徳の上でも、法律の上でも、極めて緊要の問題である。而して謂ゆる意志とは一定の目的の為に發動する 意識作用であって、今日の如き思想問題の混乱せる時代にありては、殊に十分に國民的意志を確立すべく努めることが必要である」と、「国民的意志を確立」すべきとした。
この「国民的意志」とは、社会教化事業によってつくられる「世論」のことにほかならない。
そのことは松井茂の暗示に対する考えに良くあらわれ ている。
暗示について松井茂は、「現世紀に於て、社會の環境が直接一般民に多大の影響を及ぼすもの故殊に暗示の研究が必要となり來つたのである。現に風俗警察上、活動寫眞は勿論、其の他犯罪が環境の支配を受くるの結果は、社會人は暗示に依りて多大の影響を受けつつある」と述べ、「政党の首領や、先覚者なども、 古來盛に暗示の言語を使用して居る。又暗示には簡潔の言葉が必要にして、情意投合とか、肝膽相照すとか、以心伝心とか、警察の民衆化とか、何れも皆其の一例である」と述べてい る。
松井茂は「警察の民衆化」というスローガンも暗示として使用していたことを吐露している。
松井茂は、暗示によって世論操作を試みたのであった。
このことは、松井茂が講演や著書の中で使用した「公徳」「国民警察」「国民皆警察」「共同的精神」「正義の観念」「陛下の警察官」「警察精神」「国体の 精華」「日本精神」「国民的意志」「平等即差別、差別即平等の大乗主義」等々の多くの言葉を、暗示として使用していたことを物語っている。
そしてこのこと は、松井茂が、穂積陳重の研究成果とタルドの「模倣の法則」を応用し、模傚(模倣)と暗示によって「國民的意志を確立すべく」、国民教化事業を試みたこと を示しているのである。
このような松井茂の政策は、漱石が『点登録』で批判した国家による意志の肯定を目指した施策といえるだろう。
漱石は『吾輩は猫である』(第六話)に「大和魂!」(苦沙弥先生の手製の名文)という文章を書いている。
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」「大和魂! と新聞屋 が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」「東郷大将が大和魂を有っている。 肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごと く魂である。魂であるから常にふらふらしている」「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそ れ天狗の類か」というものだ。
この文中に「大和魂! と掏摸が云う。」とあるが、「掏摸」(スリ)とは警察官のことである。漱石は『吾輩は猫である』で「探偵と 云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族」「刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だ」と書き、『草枕』でも「掏摸の親分 たる探偵」と書いている。漱石は「掏摸」という語を「探偵」の比喩として使っているのである。そして「探偵」は「警察官」の比喩であるから、けっきょく、 「掏摸」は「警察官」のことを指していることになる。
この「大和魂!」という文章も、警察官を模傚中心とした松井茂の教化事業を暗示しているということになるのである。そしてこの名文「大和魂!」に出てく る「大和魂」は、松井茂の理論では「警察の民衆化」や「警察精神」といったスローガンと同じく暗示ということになるのだ。
まるで漱石が「大和魂!」で、模傚(模倣)と暗示を駆使した松井茂の「国民皆警察」という社会教化事業を批判しているかのようである。
ここで一つの推理がはたらく、漱石は、松井茂の社会教化事業の理論を知っていて、苦沙弥先生の名文「大和魂!」を書いたのではないかと。
もしそうだとす れば、漱石は志士スウィフトのような諷刺で、英雄ショーペンハウアーと同様に、「道徳性教育教化機関」を「維新の志士の如き烈しい精神で」批判していたと いっても良いのではないだろうか。