「ショーペンハウアー」が暗示すること:松井茂の恩師穂積陳重の「法律進化論」
不思議なことに、「中村是公」をキーワードにたどっていっても、「松井茂」を介してではあるが、ショーペンハウアーに突き当たる。
松井茂の恩師穂積陳重(ほづみのぶしげ:一八五五―一九二六、日本初の法学博士。貴族院議員。男爵。枢密院議長)の論文にショーペンハウアーの名が登場するのである。
民法典の起草に参画したことで有名な穂積陳重は、「法律進化論」を唱えたことでも知られている。
じつは、穂積の「法律進化論」の原点は、ショーペンハウアー哲学にあった。一八八一年(明治十四)、穂積はドイツか ら帰国すると、同年から翌年にかけて「婚姻法論綱」を著し、「彼鴻學『ダルウヰン』氏、野蛮人中始めて婚姻の風俗興りしより、道徳進歩の一端たなりたるを 論じて曰く、『婚姻始めて普通に行はるゝに至れば、夫たる者の嫉妬心より、自然婦徳貞節を修むるに至る。而して、貞節を尊ぶより、未嫁の處女も自然其美風 に化するに至る』云々。獨逸の先哲『ショーペンハウワル』氏も、婚姻の人間後世に大関係あるを論じて曰く『婚姻の影響たるや、其及ぶ所啻に現世自己の禍福 のみにあらず、また將來子孫の幸福是れ關る。如何となれば、婚姻は後世人を生ずるの始めなればなり』」と、「法律進化論」の根本原理(社会進化の起源であ る婚姻のはじまり)を「ダーウィンの進化論」を用いて説明し、「ショーペンハウアー哲学」によって基礎付けようとした。
穂積は「婚姻法論綱」では出典を明示していないが、その内容からショーペンハウアーの『意志と表象としての世界 続編』第四四章「性愛の形而上学」からの引用と思われる。「性愛の形而上学」でショーペンハウアーは「愛の形而上学全体は、わたしの形而上学一般と密接に 結びついており、これがわたしの形而上学一般を逆に解明してくれる光を与える」と述べており、ショーペンハウアー哲学の体系の中でも重要な位置を占めてい る。
穂積はショーペンハウアー哲学の体系でも重要な位置を占める「愛の形而上学」によって、社会進化の起源である婚姻の根拠を基礎付けているのである。
また穂積は「英法の特質」(一九〇三年)で、「嘗て『ショーペンハウエル』が独逸人は其足下に在るものを雲上に之を求めんとすると云へるは、蓋し當を得 たる妙評なり。之に於てか、独逸法学は凡て理性(Vernunfut)を基礎とするものなり。独逸の法学は今猶ほ大体に於て『カント』『ヘーゲル』の勢力 範圍を脱すること能はず」と、ショーペンハウアーの立場から、ヘーゲルとカントの汎理性主義の法理論を批判している。
これは穂積の思想的立場が、ショーペ ンハウアーの法論に近いことを示している。
ショーペンハウアーの法論とは、理性ではなく同情(Mitleid)に基礎を置く道徳によって基礎づけられると いうものである。
それに加えて、穂積は、法律進化の原力である超越的理想法を最も適格に表現したものを、キリスト教における「黄金律」(Golden rule) と位置付けている。
このキリスト教の愛アガペーは、ショーペンハウアーによれば、同情(Mitleid)で、儒教の同情(仁)と同じものなのである。
つま り、穂積は「法律進化論」で「社会の基源」と位置付けた「婚姻」の根拠を、ショーペンハウアー哲学によって基礎付け、法律進化の契機となる超越的理想法を 同情(Mitleid)と位置付けていたことになる。
このショーペンハウアーの刑法論と穂積の「法律進化論」における「刑法の進化」との間に類似性がみられる。
ショーペンハウアーは、『意志と表象としての 世界』の第四巻で、復讐→刑罰→正義→愛(アガペー)と論じることによって、正義と人間愛が完全に実践された場合の到達点へ至る経路を示している。
同様に 穂積は「復讐と刑罰」で、「刑罰は復讐に起り、正義になり、仁愛に終わる」と、復讐→刑罰→正義→仁愛と刑法の進化が復讐から仁愛へと展開するとしてい る。
このように穂積陳重は、ショーペンハウアーからの影響を強く受け法律進化論を構想していた。
このことは、穂積陳重と漱石が「ショーペンハウアー」というキーワードで結びつく事を示している。さらに漱石が『文学論』の構想について「哲学にも歴史にも政治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候」(明治三十五年三月十五日付中根重一宛書簡)と述べているように、「進化論」というキーワードでも穂積陳重と漱石は結びつくのである。
つまり、漱石の『文学論』と穂積の「法律進化論」は、「進化論」と「ショーペンハウアー」というキーワードで結びつくのである。
このことは、「法律進化論」が『文学論』の隣接分野の先行研究という見方ができるということを示している。
そしてこれらのことから考えると、漱石が穂積の論稿を読んでいた可能性は極めて高いのである。
さらに後に示すように、漱石と穂積は、「模傚(もこう)」 と「タルドの『模倣の法則』」というキーワードでも結びつく。
そしてこの「模傚(もこう)」と「タルドの『模倣の法則』」は、松井茂が「国民警察」「国民 皆警察」などの社会教化事業に応用した理論なのである。
刑法を社会の進化を補うものと捕らえていた穂積は、一八九〇年(明治二十三)監獄学の専門家として小河滋次郎(おがわしげじろう:一八六三―一九二五、 穂積陳重の指導を受けて監獄学に関心を抱き、内務省に入る。社会事業家、監獄学者)を、一八九三年(明治二十六)警察学の専門家として松井茂を内務省へ斡 旋した。
さらに穂積は、同年十月に「法理研究会」を設立して、松井茂をはじめとした大学出身者の内務官僚たちを指導する。
穂積は法律進化論の政策への応用を試みていたのである。