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漱石と松井茂の間にある奇妙な一致

 漱石は、『文学評論』で伝記解釈について「普通伝記と云ふものは、斯かる非常な例外たるべき現象を生ずるに足ると思はれるだけの事情が詳細に書いて無い ものである。従つて批評家はよく一の犯し易い誤謬に陥る。即ち作そのものに顕はれた人生観などを、作家の生涯に於ける極めて微細な事件と結合して説明しよ うと試みる。」とか、「縦しや人間の仕事として個人の内部の伝記が完全に出来たとしても、其伝記だけでは作物の出来た原因が知れるとは云へない。」などと 述べて、伝記に書いてあることに全幅の信頼を置くことの危険性を指摘している。

 このことは、漱石の自伝にもあてはまると考えられる。

 漱石の自伝には、不自然な点がある。漱石が中村是公と親友であったことは有名で、漱石自身が日記などに中村是公について書いていることが漱石全集などで確認できる。

 漱石の親友の中村是公は広島県出身で、漱石は中村是公以外の広島出身者とも親しく交際したはずなのである。それにもかかわらず、広島県友会という親睦団体を作った中村是公の親友の松井茂について、漱石は日記や他の作品などで、まったく触れていないのだ。

 同様に『松井茂自傳』にも松井茂の親友の中村是公の名が出てくるが、漱石の名はまったく出てこないのである。

 一般的に考えて、親友の親友に著名人がいた ら、ついその人のことについて書きたくなるのが人情というものである。

 書きたくない特別な理由がない限り、全く触れないということはありえない。

 『松井茂 自傳』には、中村是公以外の漱石の友人では菊池謙二郎が登場し、「茨城県 人菊池謙二郎(後に有名なる学者、今東湖と称せらる)」と書いてある。

 ここで一つの疑問が浮かぶ。「後に有名なる学者」の菊池謙二郎と比べものにならない ほど有名な夏目漱石の名前がどこにも見当たらないのはどうしてだろうかと。

 まるで松井茂が、意図的に漱石に言及することを避けているかのようである。

 漱石の日記などの作品と『松井茂自傳』の双方に登場する人物として、中村是公以外には、木下広次、菊池謙二郎、水野錬太郎、山縣五十雄、大浦兼武、呉秀三などがいる。

 漱石の伝記や日記には、内務官僚の水野錬太郎や旅順の警視総長の佐藤友熊が登場しており、内務官僚や警察官だからといって伝記や日記で言及 を避けるというわけではないようである。

 また、内務官僚であった水野錬太郎は松井茂の上司として『松井茂自傳』に度々登場している。 

 呉秀三は広島県出身で 松井茂と広島県出身の親睦会の活動を熱心にした。

 漱石が第五高等学校の教授を辞職する際、菅虎雄に宛てた手紙で、医師の診断が必要になるので呉秀三を紹介 してくれるよう依頼している。

 漱石の神経衰弱が嘘であったら、松井茂の親友呉秀三の診断が嘘ということになるのである。

 このように、自伝を読んだ限りでは、漱石と松井茂には、お互いの親友の中村是公以外にほとんど接点がみあたらない。

 あたかも、検閲によって削除されたかのように、である。

 だが、漱石と松井茂には、ニアミスともいえる微妙な遭遇の機会が何度かあるのである。

 『永日小品』で漱石は、「学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢わなかったのが、偶然倫敦の真中でまたぴたりと出喰わした。ちょうど七 年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。」と書いている。

 また 漱石は、一九〇二年(明治三十五)四月十七日付けの妻宛の書簡で「四五日前中村是公が近頃は四千円位なくては嫁にはやれないといつた」と書いており、四月 十日ごろに漱石と中村是公が会っていることが伺える。

 中村是公のロンドン滞在期間は不明だが「方々遊んで歩いた」というのだから、しばらく滞在していたと推理できる。

 じつはこのとき中村是公は、イギリス滞在の前にベルリンにいたのである。

 松井茂によると「余が明治三十四年伯林に滞在中、中村是公君と共にお互いに母の土産を求めようではないかと相談の上、毛布を買つて持ち帰つた」という。

 松井茂は、一九〇二年(明治三十五)二月五日までベルリンに滞在。オランダ、ベルギー、フランスを経て、イギリスへ渡りロンドンに数日滞在し、アメリカへ渡りサンフランシスコを三月二十二日に発って、四月八日に日本に帰っている。

 中村是公が松井茂と共に二月下旬からロンドンに滞在していたなら漱石が松井茂と会った可能性もあるのだが、『松井茂自傳』には、ロンドン滞在の詳細は記されていない。

 また漱石全集を見る限り、一九〇二年(明治三十五)二月ごろの漱石の詳細な行動も定かではない。

 さらに漱石は、一九〇九年(明治四十二)に中村是公の招待で満州と韓国を訪問している。その旅行記は『満韓ところどころ』として朝日新聞に連載されたが、韓国の部分は掲載されずに終った。

 この旅行で漱石は同年九月三十日から十月十三日まで京城(現在のソウル)に滞在している。じつはこのとき、松井茂も韓国にいたのである。

 松井茂は、一九〇七年(明治四十)八月から韓国政府の官吏となり、韓国内部警務局長などとして一九一〇年(明治四十三)七月まで京城にいたのだ。
 また松 井茂は、中村是公がハルビンで伊藤博文の暗殺現場に居合わせた時のことを「凶変の現場には恰かも余の親友満鉄総裁の中村是公君が居合せたる趣の情報にも接 したので、同君に対しても余は私信を以て其の旨を電信した。」と自伝に記している。

 学生時代から中村是公の親友であった漱石と松井茂は、たしかに同時期に中村是公の眼差しのなかにいたのだ。

 中村是公を中心に見ると、漱石と松井茂は極めて近い位置に、同心円の上に存在していたはずなのである。だがどうしても、漱石と松井茂には接点が見出せないのだ。

 たしかに漱石が書き遺した文章には、松井茂という名は見当たらない。しかし不思議なことに、『松井茂自傳』を読んだ後で、漱石の作品群を読むと、漱石の作品に登場するエピソードと松井茂の関与した政策などとの間に、奇妙な一致があることを読みとることができるのである。

※大胆な推理をすれば、ロンドンで偶然中村是公に出会った際に、松井茂がいたかどうかは定かではないが、中村是公は漱石に社会教化事業に取り組む同期生た ち(松井茂、桑田熊蔵、井上友一[大陸型警察を批判]など)への協力を依頼したのではないだろうか。それに対して漱石は国家主義者に協力できないと突っぱ ねたのではないだろうか、そしてそれが、『猫』での松井茂ら犬党のヒトビトへの批判につながって行ったのではないだろうか。漱石を満州へ誘ったのは、 『猫』で松井茂を批判した漱石の立場が悪くならないようにと中村是公が松井茂と漱石の仲裁をかってでたようにもみえる。さらに根拠のない推理をすれば、漱石が下宿の連中と遠足で江の島へ行った際、真水英夫の脚絆を咥えて走って行った「犬」というのは、松井茂を指すのではなかろうか。

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