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西尾幹二先生が『GHQ焚書図書開封』で金子武蔵先生を非難⁉︎

金子武蔵先生が ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』が哲学者になる切っ掛けだったと述べていることから、ギッシングが影響を受けたショーペンハウアーとの関係を調べようと思って、「金子武蔵」「西尾幹二」で検索すると、

西尾幹二先生が『GHQ焚書図書開封 米占領軍に消された戦前の日本』(徳間書店、2008年)で、武蔵先生を非難していることがわかった。

西尾先生はショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の翻訳者で、その筋の研究者の間では神のような存在なのだ、そうだ。ご本人は著者の紹介ではニーチェ関係の業績を主に書いておられるようだが・・・。

一の谷出身の武蔵先生も、一の谷を異常に愛した正岡子規と同じように、ケチがついてしまった(イチャモンを付けられている?)存在のようだ。

差別主義者正岡子規、売国奴金子武蔵みたいな、感じだ。

なんとも酷い話だ。

西尾先生は、『GHQ焚書図書開封 米占領軍に消された戦前の日本』(徳間書店、2008年)で、武蔵先生らが占領軍の手先になって、焚書を実行したかのように非難している。

しかし、敗戦後の状況下で、アメリカ軍が「宣伝用刊行物没収」(the Confiscation of the Propaganda Publications)という名前の「焚書」を日本政府に命じ、日本政府が文部省へ、文部省が同省の官僚である東京帝国大学の助教授(国家公務員)に命令し、その命令に助教授が復命したことは、当然のことである。

日本政府に責任があるのであって、実行した公務員に責任があるわけではない。

なぜなら、かりに武蔵先生が「焚書」はできないとして退職したとしても、文部省所管の機関の公務員の誰かか、文部省に委嘱された誰か(帝国大学を含む文部省OBの学者)が「焚書」するに違いないからだ。

こういうことを日本語で「泥をかぶる」というのではないだろうか?

西尾先生は、

金子武蔵(一九〇五―一九八七)は西田幾多郎の六女を妻とし、和辻哲郎の東大における日本倫理学講座の後継者として目され、ヘーゲル研究は有名で、カント、ヤスパースなどを論じ、『キェルケゴールからサルトルへ』(一九六七)は私も読んだ覚えがあります。当時の私の目からは地味で、平凡な紹介哲学者という印象でした。昭和三十三年当時東大文学部長を務めていたので、私の卒業証書はこの人の名で出されていたはずですが、講義を聴いた記憶はありません。

と、述べているが泥をかぶった結果、大学という官僚機構では文学部長まで栄進したが、「地味で、平凡な紹介哲学者という印象で」(目立つと不毛な論争に巻き込まれるから)生きることになってしまったのではないだろうか?

西尾先生は、かなりキツいことを言っているが、ほとんどイチャモンのように思える。武蔵先生が気の毒だ。

西尾先生は、尾高邦雄(社会学者、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の渋沢栄一・尾高惇忠のお孫さん)先生の「金子武蔵先生のこと」という回想文を引用して

ご覧のとおり、関与の事実は明らかです。しかも東大文学部に「戦犯の調査」のための「委員会」が設けられて、若い二人がたぶん教授会の意向でそれの委員に選ばれたことが明確に証言されています。

と書いている。

尾高先生と武蔵先生の「若い二人がたぶん教授会の意向でそれの委員に選ばれた」そうだが、武蔵先生の敗戦前の著書を読むと、武蔵先生以外に適任者はいないように思える。

武蔵先生は『ヘーゲルの国家観』(『ヘーゲルの国家観』 岩波書店、1944年)で、

人倫原理は人倫体系として精神科学の論理たらしめることができるのであるが、――中略――ヘーゲルに於ては倫理学はその正当なる権利を与へられて居ないのである(494頁)

と、ヘーゲル哲学の「大きな欠陥」を指摘し、

人倫国家は民族と社会とを止揚的に綜合したものであつたが、それの意義を考へるに当つて、我々は眼を社会に注がなくてはならぬ。さて社会は特殊性の原理に出立するものとして根本的には経済社会であり欲望体系に外ならぬ。それは欲望体系として限りなく拡大され普遍化されようとするが、それ又分業・交換の体系でもあるから、普遍化は同時に特殊化・個別化である。かくて経済社会の発達は特殊性の原理と普遍性の原理とを分裂せしめ。両者はたゞ必然性によつて結合されるに止るに到るが、これ即ち『人倫の喪失』に外ならぬ。而も特殊性の原理に出立する経済社会の欲望体系に於ては普遍と雖も実質に於ては少数の富者即ち資本家の簒奪せるものに外ならぬから、特殊性の原理と普遍性の原理との分裂的対立は少数資本家と労働大衆とのそれである。ヘーゲルが『賎民』と言へるものがやがてマルクスに於てプロレタリヤと呼ばれるものとなるのは周知のことに属する。市民社会を以てヘーゲルは外的国家・必然国家としたが、これはやがて階級国家と言はれるものに外ならないのである。だから市民社会のうちに生ずるものは労資の激しき衝突といふ社会問題である。それは『富の過剰にも拘らず・・・・・・貧窮の過剰と賎民の出現とを防止することができる程には富みては居ない』のである。かくしてそれは社会問題の解決のために世界的商業と植民との政策に腐心する。(494-5頁)

これに於て少数の資本家が多数の無産者に対立しつゝも、尚これに対して支配権を維持せるとき、逆に多数者が鞏固なる団結力によつて少数者の支配を破碎せんとするに到ることは当然であるが、こゝに生ずるものがマルクス的社会主義に外ならない。これは普遍性の原理に対して特殊性の原理を不均衡に発達させ来つたヨーロッパ的国家の現代的問題である。(495頁)

これに対して日本には家族と国家とがあるだけで社会の媒介が欠けて居た。これがために個人の自主自由自覚がなく、従つて又経済技術科学法律制度等が十分なる発展を見なかつたのみならず、全体性も心情のうちに止まつた。こゝにもまた『人倫の喪失』は存したのである。だからこゝでは全体性の原理が維持せられながらも特殊性の原理が発展せしめられなくてはならない。(495頁)

と、ヨーロッパ的国家と日本の両方に『人倫の喪失』があると指摘している。

武蔵先生の『ヘーゲルの国家観』の第一版が1944年発行ということだから、『ヘーゲルの国家観』は第二次世界大戦中の本ということになる。

わたしの偏見だったのだが、ヘーゲル研究者というと、日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者の紀平正美大先生が浮かび、危ない人ばかりに違いないと思っていたのだが、武蔵先生は、紀平大先生とは、ひと味違う感じだ。

紀平大先生は『国体と哲学』(理想社出版、1940年)で、

今回の如き非常時に際しては、所謂、軍国の父たり、母たり、子たり、妻たるものが多く現はれて来る、此等は互に護念し合ひつつ、更に新らしき力を其虞に産み出しつつあるではないか。即ち信じ楽み合ふといふことを、国家への奉仕といふことに見出し、斯る和合の上に、よく住於無所得の行が日々に演出せられて居るのである。

日本人は始より皇運扶翼といふ立場にあつて、抽象せられる個人を立てないのであるから、全体として、始終信楽世界の人である

欧米人は猶太財閥の為に、今日では全く資料化され、殺されつつあるのであろが、皇威の光被する処、復特に此等の各国民衆をば其の魔力より救ひ出し、各自の本分に於て、生かさんとするのである。此故に、之をば聖戦といふ、而て又之をば八紘一宇といふ概念にて表示して居るのである。

勿論一般の親は其の子を私のものとして居るであらうが、例へば戦ひに死するが如き場合には、母親は特に悲嘆にくれるであらうが、彼は直に思ひ返す力を有つ、我が子と思へるが故に間違ふ、国家の為めに養育したものと考へれば、今自分は始めて育てた目的が達成せられたのではないか、喜ばなければならぬと。此が日本の軍国の母の相である。斯くの如き、心機の転回を為し得る所以のもの、それが実に日本人の本性なのである。斯くて日本のみが「国家」である。時に人は、日本は家族主義の国なりと云ふ。言ふ人の意義如何ん、家族でも、又民族でもない、民族を主として国を機関と見るは、ナチス独逸国であり、残存せる家を形式的に守るは支那である、日本はどこまでも国が本である、其の内にありて家とは帝国臣民を作る自然的道場に外ならない

などと述べている。

戦時中なので、割り引いて読んでも

「例へば戦ひに死するが如き場合には、母親は特に悲嘆にくれるであらうが、彼は直に思ひ返す力を有つ、我が子と思へるが故に間違ふ、国家の為めに養育したものと考へれば、今自分は始めて育てた目的が達成せられたのではないか、喜ばなければならぬと。此が日本の軍国の母の相である。斯くの如き、心機の転回を為し得る所以のもの、それが実に日本人の本性なのである。」という主張は、

人間としてどうなんだろうか?

と、素朴に感じてしまう。

紀平大先生は、

満洲事変を機会として、知識者も日本へ転向を余儀なくせられたのであるが、まだ中々転回と云ふ程には至らない。口に国体を唱へ、筆に日本精神を論ずることが、爾来一種の流行と見てもよい程に多くなつたのは、勿論慶すべきことに相違はないが、序文と結論とや、或は時に應じて日本精神なる語が挿入せられて居るにしても、本文や、其他一切論述の方法が、依然として、個人主義のものであるものが多分を占めて居る、実際それではものになつてゐないと云はねばならぬ。此も猶ほ当分は致し方のないことと許さねばならぬと思ふ。

と、戦時中の知識人の態度について述べている。

知識人が、「口に国体を唱へ、筆に日本精神を論ずることが、爾来一種の流行と見てもよい程に多くなつた」「序文と結論とや、或は時に應じて日本精神なる語が挿入せられて居る」という状況下で、ヨーロッパ的国家と日本の両方に『人倫の喪失』があると指摘する武蔵先生は、学問に忠実な人だったんだな、と思う。

西尾先生は、認めないと思うが、知識人が、「口に国体を唱へ、筆に日本精神を論ずることが、爾来一種の流行と見てもよい程に多くなつた」「序文と結論とや、或は時に應じて日本精神なる語が挿入せられて居る」という状況は、戦争協力であり、学術書(論文など含む)の宣伝図書化と言えるのではないだろうか。

戦時中の宣伝、あるいは総力戦を戦うための戦争準備としての宣伝は、アメリカを含むヨーロッパ的国家でも日本でも行われていたことで、国家としては当然のことであるが、その宣伝には「人倫」が欠けているように思う。

著名な研究者が戦争継続のための宣伝に協力していた時期に、ヨーロッパ的国家と日本の両方に『人倫の喪失』があると指摘しているのだから、「宣伝用刊行物没収」(the Confiscation of the Propaganda Publications)という政策を文字通り解釈すると、武蔵先生以外に適任者はいなかったように感じる。

宣伝用刊行物と思想書や歴史書とを、区別するのは極めて困難な作業である。

武蔵先生にとっては、不幸なことだったと思うが、武蔵先生のような学問に忠実な人物が適任であったと思う。

仮説だが、「宣伝用刊行物没収」(the Confiscation of the Propaganda Publications)に該当した図書には、「序文と結論とや、或は時に應じて日本精神なる語が挿入せられて居る」のではないだろうか?

西尾先生は、その辺りを検証してから、武蔵先生を非難すべきだろう、たぶん。





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