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一の谷は、城山三郎ファンの聖地⁉︎

経済小説の開拓者として有名な城山三郎の作品に『鼠─鈴木商店焼打ち事件─』(1966年、文藝春秋)という小説がある。

『鼠─鈴木商店焼打ち事件─』に

鈴木商店の生き残りの人にも、数多く会った。 大会社の社長もあれば、元大臣もある。すでに現役を退き悠々自適の身の人もあれば、病床の人もあった。 その中で、最も印象的なのが久老人であった。六十七歳。 わたしが訪ねて行くというにも拘らず、久老人は大阪の住いから、わたしの滞在中の神戸のホテルヘ出向いてきた。

須磨一の谷の金子直吉の旧居を訪ねるときにも、久老人は強情というか、忠誠心を発揮した。
 直吉の邸が人手に渡ってから、すでに四十年。しかし、老人の頭の中には、旧居は当時のまま厳然と四囲の緑を圧して、そそり立っているようであった。
 かつては細い九十九折の山道しか通じていなかったその丘陵も、いまは箱庭をひろげたような住宅地帯となって、幾本かの自動車道路が上っている。新しい目標として〈一の谷山頂の公衆電話ボックス附近〉と、他の人から聞いてきたのだが、そのボックスもまたいくつかあるようであった。

ようやく公衆電話があった。だが、まわりは木立の中に何十戸となく家が散っている。〈四十年前の金子邸〉と言って、果してわかるだろうか。わたしは引き返したくなった。

と書いてある。

城山三郎は小説の取材のために金子直吉の邸宅(一の谷山荘)を訪ねたようだ。

だが、城山三郎が一の谷を訪れたときには、既に一の谷山荘はなかったようだ。

ちょっと、気になったのだが、

幾本かの自動車道路が上っている。新しい目標として〈一の谷山頂の公衆電話ボックス附近〉と、他の人から聞いてきたのだが、そのボックスもまたいくつかあるようであった。

という表現は、正確さを欠くように思われる。

「幾本かの自動車道路が上っている。」とあるが、一の谷町二丁目に行く自動車が通行可能な道路は一本しかない。

また、
「〈一の谷山頂の公衆電話ボックス附近〉と、他の人から聞いてきたのだが、そのボックスもまたいくつかあるようであった。」というが、「一の谷山頂」と呼べる位置には、電話ボックスは一つしかない。

この目標の電話ボックスは今もある。

現在の〈一の谷山頂の公衆電話ボックス附近〉
Googleマップ


もちろん、当時の電話ボックスではなく、新しいタイプの電話ボックスになってはいるが・・・

城山三郎の小説、『鼠─鈴木商店焼打ち事件─』(1966年、文藝春秋)に登場する、電話ボックスがある、といってよいだろう。

一の谷町二丁目は、城山三郎ファンの聖地である、といってよいかもしれない。

リートン作:海の見える電話ボックス







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