「警防団は独逸ナチスの親衛隊以上に」:「警防団」から「国民義勇隊」へ
ヒットラー率いるナチスがドイツを支配すると、松井茂は講演や論稿でヒットラーの施策を紹介し、絶賛しはじめる。
松井茂は、一九三六年(昭和十一)に著した『“都市教化の諸問題”我国体と地方自治』(中央教化団体連合会、一九三六年)の「序」で、「我国体と地方自 治と題して意見を申述べたいと思ひます。地方自治に国体觀念を注入することは最も急務であつて、国体を離れて地方自治は存在しない」と断言した。
そして、 「然るに一時我国では、自治團体であるとか、帝国議会とか云ふものは別に獨立超越せる国家の機関であるかの如き誤解が一部の間にはないでもなかつた」と、 それまでの地方自治の施策を否定し、「此の點は特に今日の如き国体明徴の聲の盛の時に於ては徹底的に明にして置くの必要があります。」と、『“都市教化の 諸問題”我国体と地方自治』を著した理由を明らかにした。
松井茂は、「ヒツトラーは非常時に際し、等制法を發布したのであります。是れは詰り全国民主義を主張せるものにて、即ち各聯邦を打つて一丸としたもので あります。此の法律は千九百三十三年の三月三十一日に發布されたものである。即ちヒツトラー總統の命令を以て、思ふ存分に自治の事をも行ふのであつて、之 も独逸としては大英断と云ふの外はないのであります。」と、ヒットラーの自治に対する施策を絶賛した。
さらに松井茂は、ヒットラーは「黨国統一法」という「ヒツトラーの黨派以外には、共産黨でも其の他何れの黨派も之が存在を許さないと云ふの法律」によっ て、「政黨と国家とを一緒に合致せしめ」、「政黨は唯一つしかない事となつた」と紹介し、「独逸は一時自治体までも大に政黨化し、甚しきは青年團、少年團 にも其の悪弊が及びたる故、中央政府が断乎たる監督を自治体に對して行ふに至りたる事も當然の結路」と評価し、「我国に於ても此の點は他山の石として大に 考慮すべき問題」で、「都市の監督問題の重要なる事と、都市制度の再險討が我国状に於ても必要」であると主張した。
一九三七年(昭和十二)に著した『教育勅語と警察精神の発揚』でも松井茂は、「ヒツトラーは全国民の総意に基き、新内閣を組織し断然共産党を排除し、イ デオロギーよりも寧ろ行動といふことが何よりも急務であると絶叫し来り着々国家改善の実効に着手しつつあるので、今日の独逸は駸々乎として国民精神の振興 が期せられつゝある」と、ヒットラーの施策を絶賛し、「例へば教育上に於ても下は小学校より上は大学に 至る迄徹底的にナチスの国家観念を基礎とし、殊に少年団の活動は大に見るべきものがある。特に最も熱心に之が指導者の養成に力を致し、地方的及中央的施設 を行ひ、三ヶ年の期間を以て少年指導者養成の専門学校さへ設けられて居る」と、少年団(ヒトラーユーゲント)の事例をあげて、ナチスの教化事業を高く評価 した。
松井茂は刑事政策についても、「ナチス政府は一九三三年刑法の全般的改正を企て、順調に進行しつゝある様であるが、畢竟從来の誤れる個人主義的法治国家 の弊に鑑み新刑法の各論を国民力の保護、国民秩序の保護、国民各個人の保護、正しき經済生活の保護等、主として全国民的国家主義に着眼しつつあるの状況 は、我国としても立法上參考に値するものがある」と高く評価し、ヒットラーの警察政策についても参考にすべきであると強調した。
松井茂は、「ヒツトラーも その著書(Mein Kampf)中に」と『我が闘争』を引用しつつ、ヒットラーの施策を絶賛した。
そればかりか松井茂は、一九四〇年(昭和十五)に著した「紀元二千六百年の祝典に参列して」(『警察協会雑誌』 第四八七号、一九四〇年)では、「ヒツトラー独逸総統は昭和十五年皇紀二千六百年の駐独日本大使館の祝賀午餐会に臨み『日本は未だ曾て他の国より侵略され たる事なく、国民性は昔から純潔性を継続し来り、殊に其の武士道精神は必らず克く東亞の新秩序の大使命をも遂行し得べし』と声明して居る様であるが、此等 の点より云ふも、国民の第一線に立つところの日本警察官たるの使命は、実に重且大なりと称すべきである。」と、ヒットラーの言葉を引用し警察官の士気を鼓 舞するのであった。
さらに翌一九四一年(昭和十六)の「昭和十六年の新春を迎へて警察官の覚悟を望む」(『警察協会雑誌』第四八八号、一九四一年)では、「独逸の警察及消 防は夙に世界に卓越し、殊に警察教育の如きは流石に独逸丈けあつて多大の力を注いで居ることは健羨の情に堪へざるものがある。更にヒツトラー氏が総統に就 任以来、警察の組織は非常に強化され、殊に特高警察のゲスタツポ(Geheimnisspolizei)の方面では総統とゲーリング内務大臣とヒムラー警 察長官が三位一体となり、特に防諜問題の如きは前欧州戦争の失敗の跡に鑑み、非常に具体化し来りたることは、今回の欧州戦争の実績に徴しても明らかに想像 し得る次第である。」と、ナチスの警察教育を絶賛し、ゲシュタポを高く評価した。
そして、松井茂は「余の警察生活五十年の回顧(三)」(『警察協会雑誌』五一四号、一九四三年)では、ヒットラー率いるナチスドイツの施策を絶賛するだ けではなく、「警防団は独逸ナチスの親衛隊以上に我国は我国として国情に即して之を育成強化したいものである。」と、決意を述べている。
松井茂は、警防団 をナチスの親衛隊と同様に考え、その組織化を図ったのである。
この警防団とは松井茂が貴族院で末次内務大臣に対して質問し、防空上の問題から消防組と防護団を一元化すべきとの意見が入れられ、一九三九年(昭和十 四)四月に消防組と防護団との改組統合により警防団となったものである。
警防団とは、大日本警防協会の構成団体であり、大日本警防協会は一九二七年(昭和 二)七月大日本消防協会として創立し、一九二九年(昭和四)九月財団法人となり、一九三四年(昭和九)には梨本宮を総裁とし、一九三九年(昭和十四)四月の改組統合による警防団の誕生とともに大日本警防協会と改称したものである。
そして、改組と同時に松井茂は大日本警防協会の副会長を務めた。
一九四三年(昭和十八)十一月には、新たに防空総本部が設置される。この防空総本部は、総務局・警防局・施設局・業務局の四局からなり、内務大臣が長官、次官が次長、警保局長が警防局長、国土局長が施設局長を兼ねた。
さらに、松井茂の国民皆警察の構想は、着々と実現していくことになる。
一九四四年(昭和十九)四月には、警視庁、北海道、京都、大阪、神奈川、兵庫、長崎、埼玉、千葉、愛知、広島、山口、福岡に警備隊が設置され、警察力が強化される。
警備隊長は、警察部長に直属する警務官があてられ、隊長および大隊長が、監察官を兼務した。
戦況が悪化し国民が疲弊していくのとは裏腹に、模傚中心の警察は強化されていったのであった。
そしていよいよ、一九四五年(昭和二十)三月に「国民義勇隊に関する件」(「閣議諒解事項 警防団ハ国民義勇隊ノ組織ニ一体化スルコトヲ目途トシ一面警 防ニ聊モ間隙支障ナカラシムルコトヲ確保シツヽ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス」とある)が閣議決定されると、職域、地域ごとに国民義勇隊が組織された。
職域は、官公署、会社、工場、事業場、地域は、町内会・部落会を小隊、隣保を班とした。
そして「地域義勇隊が戦闘隊に転移したとき警察も戦闘隊編成をとり、 いわば国民義勇軍の憲兵となるはずであった」(兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、一九七五年)。
松井茂が一九二一年(大正十)に「社会と警察」(『警察協会雑誌』第二五三号、一九二一年)で思い描いた「在郷軍人会や青年団」を用いて「義勇警察隊」 を編成する構想は、「国民義勇隊」として実現したのである。
漱石が『吾輩は猫である』で未来予測した通り、日本は国民皆警察化したのである。
恐ろしいことに、この 国民皆警察が松井茂の構想どおりに実施されていたとすれば、国民皆警察とは、特高警察化された一般警察官を模傚中心とした国民の皆特高警察化であった。