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一の谷は、松尾芭蕉感涙の『平家物語』ファンの聖地⁉︎

松尾芭蕉は、須磨一の谷に『平家物語』のコンテンツツーリズム(聖地巡礼)をしている。おそらく、文献で確認できる最古のコンテンツツーリズム(聖地巡礼)、かもしれない。

また、このコンテンツツーリズム(聖地巡礼)で、芭蕉は鉄拐山登山をしている。これは文献で確認できる最古の物見遊山の登山(観光目的の登山)、かもしれない。

松尾芭蕉の『笈の小文』の「須磨」には

 東須磨・西須磨・濱須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも みえず*。「藻塩たれつゝ」*など歌にもきこへ侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず*。きすごといふうをゝ網して、眞砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。 若古戦場の名殘をとヾめて、かかる事をなすにやと、いとど罪ふかく、猶むかしの戀しきまゝに、てつかひが峯*にのぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、「麓の茶店にて物をくらはすべき」など 云て、わりなき躰に見えたり*。かれは十六と云けん里の童子*よりは、四つばかりもをとうとなるべきを、数百丈の先達として、羊腸 險岨の岩根*をはひのぼれば、すべり落ぬべき事あまたゝびなりけるを、つゝじ・根ざゝにとりつき*、息をきらし、汗をひたして、漸雲門に入こそ、心もとなき導師*のちからなりけらし 。

『笈の小文』の「明石(大団円)」

  かゝる所の穐なりけり*とかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし*。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠*の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや*。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。
 又後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風・村雨の ふるさとゝいへり*。尾上つヾき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ殘て、鐘懸松*より見下に、一ノ谷内裏やしき、めの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位のあま君*、皇子*を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひ*、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね*・ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり*、櫛笥はみだれて、あまの捨草となりつゝ*、千歳のかなしび此浦にとヾまり、素波の音にさへ愁多く 侍るぞや。

などと書いてある、らしい。

「其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位のあま君*、皇子*を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひ*、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね*・ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり*、櫛笥はみだれて、あまの捨草となりつゝ、」というのは、

「一ノ谷内裏やしき」を見て、芭蕉がイメージしたことが書かれている。

句の創作の元になる、芭蕉のイマジネーションが、あからさまに表現されている部分だ。

結構重要な部分だと思うのだが、

不思議なことに、『笈の小文』の「明石(大団円)」に書かれているのは、

明石ではなく須磨の鉄拐山と一の谷界隈のことであるのに、いかにも明石の蛸を想起させる

蛸壺やはかなき夢を夏の月

という珍妙(ユーモラス?)な句が添えてある。

なんとも不自然だ。

ところが、

芭蕉は、 延宝7年、(芭蕉36歳)の時に

見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

(「詠(ながむ)れば=口ずさむ、和歌を吟ずる。「眺れば」が掛かる。」

http://sakuramitih31.blog.jp/archives/22212782.html

らしい。深読みかも知れないが、眺めるに「詠」を当てるのは意味深い気がする。句作の奥義を込めた句ではなかろうか?)

という句を詠んでおり、

デジャビュのように須磨巡りの際の鉄拐山登山の感動がそのまま、詠われている。

『猿雖(惣七)宛書簡(貞亨5年4月25日 芭蕉45歳)』

によると、

てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、あはぢ嶋。丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがにみるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戦場に望み、熊谷に組ていかめしき名を残しはべる。その哀、其時のかなしさ、生死事大無常迅速*、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも伝度候。

とある。

この手紙の文章を、

見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

という句に沿って、分けてみると、

鉄拐山に登って、見渡せば「すま・あかし左右に分れ、あはぢ嶋。」。

「丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、天皇の皇居はすまの上野」を眺(詠)めれば「其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがにみるここ地して」、「敦盛の石塔」を見れば、感極まって涙した(「泪をとどめ兼候」)。

となる。

見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

は、みごとに

見渡せば詠むれば見れば一の谷

になるのである。

リートン作:敦盛の石碑の前で泣く芭蕉


見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

という句を

夏草や兵どもが夢の跡

で、芭蕉が「夏草」から「兵ども」の「夢の跡」を想起した逆を考えれば、

芭蕉が『平家物語』に描かれた安徳帝や二位の局や敦盛などの哀れを「須磨の秋」の寂しさに置き換えたと考えられ、

まさに、

見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

には、

デジャビュのごとく、

芭蕉の須磨巡りでの鉄拐山登山で明石須磨遠く淡路島を見渡し、鉄拐山から一の谷の安徳帝内裏跡を眺(詠)めた感慨を持って敦盛塚を見た体験が、活写されているのである。特に、一の谷の安徳帝内裏跡を眺(詠)めた感慨、芭蕉がそのイメージを事細かく手紙で知らせた部分が、肝である。

現在で言えば、『平家物語』のコンテンツツーリズム(聖地巡礼)をした松尾芭蕉がその聖地で、大の大人が涙を流したという、一種異様な光景が展開されたわけで、「敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候」というのは、あまりに大げさすぎるのでは?

と思うかも知れないが、

じつは松尾芭蕉は、平宗清の子孫だと信じていたらしい(伊賀町編『伊賀町史』伊賀町、1979年)  。

平宗清がいなければ、源頼朝は殺されていて、安徳帝は死なずに済んだ。だがその場合、松尾芭蕉は誕生していないかも知れないということになる。安徳帝(幼子)の死は望まないが、平家の没落がなければ松尾芭蕉の存在もないという複雑な感情、つまり他人事でなかったのだ。

※ちなみに安徳帝内裏跡にある稲荷社の名前は宗清稲荷という。

このように、須磨一の谷は松尾芭蕉が『平家物語』のコンテンツツーリズム(聖地巡礼)をした場所である。

現在も一の谷は、

『遮那王義経 源平の合戦』  やNHK大河ドラマ『 義経 』などの広義の『平家物語』の聖地といえるが、コンテンツツーリズム(聖地巡礼)をする人は少ないようだ。

だが、

一の谷は

松尾芭蕉ファンにとっても『笈の小文』の聖地で、芭蕉が『平家物語』のコンテンツツーリズム(聖地巡礼)をした記録(コンテンツ)がまた聖地になるという、再帰性のある極めて珍しい聖地であるといえるだろう、たぶん。

今で言えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の聖地巡礼を元に書いたブログが文学的価値を生んで、更にその聖地になるというくらい珍しい話だ。

須磨(特に一の谷)は、実は地味にすごいところなのである。

もうすぐすると、

須磨の水族館でオルカショーが見れるようになるらしいが、

見渡せば詠むれば見れば須磨のシャチ

あまり、ピンとこない。

昭和4年頃撮影の安徳帝内裏跡(白黒をカラー化)

現在は宗清稲荷の玉垣(石柱)と写真中央の石碑は残っているが松林はなく一の谷公園の一部に安徳宮の社がある。不思議なことに安徳宮横にある稲荷社の祠には名前が掲げられていない。

という作品が売りに出ていた。この絵の家が密集しているあたりに公園があり、そこが安徳帝内裏跡と言われている。

商品情報に「 ここが「笈の小文」に出てくる『鐘懸松』だと確信しました 」とあるが、そこは「逆落とし」と言われている場所だ。ま、伝承が途絶えたりいい加減だったりして、誰にもわからないといえばわからないのだが・・・

ちなみに、この絵の中央やや右あたりの大阪湾の向こうの山から初日の出が見える。


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