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「国体の精華」と衣服の進化論 :「世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる」
松井茂は、一九二七年(昭和二)に著した「加賀谷方学士訳『民衆と警察』を読む」で、「国民警察の意義は、既に警察の基礎は国民の為めに存在するものな る以上は、警察官も国民も其の人間たる立場に於ては同一の平等観に立つのは当然である。又更に国民警察の上より見たる災害防止の点より云ふときは、国民も 警察官も、此の方面に対しては互に平等的一致点を見る次第である。」と、災害防止の観点は警察官と国民が一致するとした。
さらに松井は、「既に万物は平等であると同時に、差別的である以上は、国民警察の問題も其の差別的現象としては、警察と国民とは各其の立場を異にするものと云はねばならぬ。即ち国家の権力なる点より云へば、警察官にのみ其の職責があつて、国民には単に自治や公民教育の点より災害を防止するに過ぎない。」という。
このような平等と差別との関係について松井茂は、「平等は即ち差別である故、平等其の儘の差別と云ふ事に帰着するのであつて両者は決して別々に之を分つ べきものでは無い。」として、「我国体に於て、謂ゆる情に於て父子たりとは平等観念であり、又義に於て君臣たりとは差別観念である。」と説いて、「此の情義の融和点が真に我国体の精華にして、亦之に基いてこそ、始めて我国独特の国民警察をも健全に築きあげる事が出来るのである。而して之が亦偶ま以て我邦の 警察をして世界に冠たらしめる所以である。」と、平等と差別、つまり情義の融和点が「国体の精華」であると位置付け、それを基礎にして国民警察が実現でき ると考えたのである。
そしてこの思想を松井茂は、「平等即差別、差別即平等の大乗主義」(松井茂『教育勅語と警察精神の発揚』松華堂、一九三七年)と呼んだ。
また松井茂がい う「国体の精華」における「精華とは最大優秀の意であつて、国体の精華とは我国体の最大價値を謂ふ」という。ここでは詳しく述べないが、当時ヘーゲルや ニーチェの哲学を大乗的、ショーペンハウアーの哲学を小乗的とみる見方があった。
この松井茂がいう「国体の精華」を漱石は、否定している。
漱石は『吾輩は猫である』で子供が 砂糖を分け合う様子(砂糖の分配)に喩えて、猫に平等について以下のように語らせている。
「彼等は毎朝主人の食う麺麭の幾分に、砂糖をつけて食うのが例で あるが、この日はちょうど砂糖壺が卓の上に置かれて匙さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から 一匙の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。少らく両人は睨み合っていた が、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに 一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛の砂糖が堆くなって、壺の中 には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼を擦りながら寝室を 出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っ ているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く甞めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事 などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃の上から黙って見物していた。」(第二話)と。
漱石によれば、公平(平等)は「利己主義から割り出した公平とい う念」でしかないのである。
差別について漱石は、衣服の進化(衣服の進化論)に喩えて以下のように猫に語らせている。「人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史 にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物に邂逅したようだ。化物でも全 体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大に困却する事になるばかりだ。その昔し自然は人間を平 等なるものに製造して世の中に抛り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である。もし人間の本性が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強す る甲斐がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっ と魂消る物をからだにつけて見たい。」「仮令世界何億万の人口を挙げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はな いと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。」(第七話)と。
このように漱石は、平等の実現には悲観的で、「衣服を着けない人間」を「化物」と呼んで「世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる」と言って いる。
この喩えにならって、制服によって統一された場合(皆警察が実現された場合)を考えてみると、差異がないという点では「衣服を着けない人間」ばかり になることと同じである。このことはつまり、全員が制服を着た翌日から、差異を求めて競争することになるといえるだろう。漱石の考えでは、平等の完全な実現は不可能なのである。
さらに漱石は、個人と個人の調和について相撲に喩えて、「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際が おだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なよう だが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打って いるじゃないか」(第十一話)と述べている。
まるで漱石が、「平等則差別、差別即平等」に見えても、それは穏やかなものではないと、松井茂の「平等即差別、差別即平等の大乗主義」を批判しているか のようである。
そして、平等と差別、つまり情義の融和点が「国体の精華」であることを考えると、漱石は後に「国体の精華」と呼ばれるものを『吾輩は猫であ る』で批判していたことになるのである。
また、砂糖の分配、衣服の進化論、相撲の喩えは、自覚心についての説明となっていることから、探偵化(「国民皆警察」化)の批判とも言える。