「模傚」(もこう)と「模倣の法則」:穂積陳重の「模傚性と予防警察に就て」
漱石は『吾輩は猫である』で「模傚」(もこう)について以下のように書いている。
「人間の用うる国語は全然模傚主義で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚はかくのごとく至難なものである。」(第五話)と、「人真似」という語を使って人間には完全な模傚の能力がないと指摘している。
この「模傚」という語は現在では「模倣」と言われることが多い。『野分』では「模倣」を使って「仏蘭西のタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。」とタルドを引用している。
タルドは『模倣の法則』で知られているフランスの社会学者である。
漱石と同じく「模傚」(もこう)という訳語を使っている学者がいる。
それは松井茂の恩師穂積陳重である。
穂積は、「模傚性と予防警察に就て」で、タルド の「模倣の法則」(穂積は「模傚」という語を使用)をもとに、模傚を「善模傚」「悪模傚」に大別し論じている。しかし、予防警察の対象について論じている ため、「善模俲」については詳述されていない。
穂積が「悪模傚」について例示した事項と、松井茂が『警察の本領』(博文館、一九〇六年)で広義の警察教育のために例示した事項に共通点が見られる。
穂積の定義による「善模傚」が松井茂の主張する広義の警察教育(公徳教育)にあたると思われる。
松井茂の「我が警察界の恩人 法学博士穂積陳重先生」(『警察協会雑誌』) によれば、一九〇二年(明治三十五)十二月六日、松井茂を警察官僚へ導いた穂積陳重が、警察協会において、タルドの論稿を参照して、「模傚性と予防警察に 就て」と題した講演を行っている。
そこで先ず、穂積は、模傚には、「善模傚」、「悪模傚」の両種があり、そのうち「悪模傚」のみが予防警察の目的物となる と定義した。また、模傚を「模傚の主体」、「模傚の客体」、「模傚の媒介物」に分類し、「模傚の主体」とは「真似をする人」、「模傚の客体」とは「手本と なるもの」、媒介物とは「其仲立ちとなるもの」のことであると定義した。
「模傚の客体」には、「エキザンプル、センター」― すなわち模傚中心 ― というものがあり、それを中心として模傚は拡散し、模傚中心が社会の上級にあるとき、富者が模傚中心となった場合、「國體の首領、親方、教師政 党の有力者、一地方の有力者の如き主導的位置に立つ者が模傚中心と為りたるとき」は、伝播力が非常に強い。
「模傚の主体」は、感受性に左右される。「感受 性とは伝染し易すき性質を指す」もので、感受性の強弱はその主体と模傚中心との距離、接触の多少に比例する。距離の遠近とは地理的距離ではなく心理的の遠 近を指し、遠隔の地であっても、電信、電話その他交通上の便利な場所は心理的に近く、新聞を読む者は読まない者よりも相互の距離が近い。
「模傚の媒介物」とは、「模傚の主体」と「模傚の客体」との間に立って「模傚中心」を客体に紹介するものを総称し、書籍、新聞紙、演説、広告、芝居、見せ物、講談、落語、碑、書信等であり、模傚は風力、蒸気、電気、に伴って陸を走り海を渡るもので仮に外国に て生じた事柄であっても、速に我国に伝播することがある。伝播力の強弱は社会的賞賛、同情又は許容に比準し、媒介物に関する伝播力の強弱はその公私に比準 する。「公の媒介物」は「模傚の客体」との接触多く、「私の媒介物」はその接触が少ない。よって、予防警察は特に「公の媒介物」に注意しなければならない。などと述べた。
また穂積は「慣習の起源」(明治四十年)で「模倣」と「暗示」の関係について、「受動的に之を観れば模倣なり、発動的に之を観れば暗示 なり」と定義している。
一九〇六年(明治三十九)、松井茂は、警察観念を一般に普及させる目的で『警察の本領』を著し、警察教育の必要性を強調した。
この『警察の本領』に穂積陳重の上記の講義の影響が見られる。
松井茂は、警察教育を狭義と広義に分類し「狭義に於ける警察教育とは警察官其のものに對して教育を施すことで、広義の警察教育とは社会公衆に警察上の知 識を普及せしめ、警察思想に対する一般の同情を得ることであ」ると定義した。そして、「知育と、警察の関係に就いては、家庭教育、学校教育、といふものの 外に、社会教育といふことが最も警察に密接の関係を有して居ります、而して社会教育の中で警察上最も注意しなければならぬものは、新聞紙、小説、演説、講談、演劇、観物場、寄席、集会場、公園、勧工場、縁日、馬車、道路、汽車といふような類の者」であると述べた。
これらは、穂積の例示した「模傚の媒介物」とほぼ一致する。
さらに松井茂は、広義の警察教育(公徳教育)について、「社会に勢力のある人が率先して公徳の養成の事に力を致したならば大に効果のあることと思いま す」「教育家が公徳の率先者にならねばならぬ」「新聞紙は公徳養成上に就いては頗る効力あるものであります、新聞紙が社会全体に及ぼす所の勢力は非常なも のであることは今更論を待ちませぬ―中略―常に新聞紙たるものは、公徳養成の率先者たることを信じて疑わぬ」、「公共団体員と云ふ者も公徳の率先者となら ねばならぬと思ひます、貴衆両院議員は勿論、其他府県会議員町村会議員等の人々は、公徳の率先者とならねばならぬ、何となれば此等の人々は、自治体の率先 者であり、衆望を担ふて居る者である、其位置からしても公徳の率先者でなければならぬことは疑なきところです、而して今日の実況は果たして、此等の公共団 体員は善く天下に率先して、公徳の耳目となるや否やに就ては、賢明なる読者諸君の判断に任さうと思ひます」。「社会倶楽部其他諸種の団体と云ふものは、亦 公徳の率先者とならねばならぬことは、論を待たぬ次第である」「警察官は又公徳養成の率先者でなくてはならぬ」などと述べた。
これらは、穂積が例示した「模傚の客体」(手本)である「模傚中心」の内容とほぼ一致しており、穂積が「悪模傚」について例示した事項と、松井茂が広義 の警察教育(公徳教育)のために例示した事項には共通点が見られ、穂積が模傚について「善模傚」と「悪模傚」があると定義したうちの「善模傚」が松井茂の 主張する広義の警察教育(公徳教育)であったと考えられる。
さらに松井茂は「群衆取締に就て」(『警察協会雑誌』第一五八号、一九一三年)で「群衆の分類に付ては種々の説もあるが、之を区別して異類の群集と同類 の群衆との二つにすることが出来る」と群集を「異類の群集」と「同類の群集」とに二分して、「異類の群衆とは所謂野次的の類で火災場の群衆の如き類で」、 「消防夫巡査の集団の如きは同類の群衆である」と説明して、「同類の群衆は適当に之を導けば其効果は大なるものである」と「同類の群衆」を適当に導く事が 有益であると述べている。
そして、「警察官の如きも金銭以外にある善き物ありといふ責務に尽すの観念を鼓吹し、大に自治的精神国民道徳の涵養に努め、一旦事あらば義勇公に奉ずる といふ健全なる群衆心理の状態に在らしめ」れば、「警察其のものの発達を見るのみならず、一警察官の健全なる模範によりて、其の感化は村民全体に及び頗る 有益の結果を見ることを得る」と、「同類の群衆心理」を応用することによって、警察官を模傚中心として民衆をも感化しようと構想した。
松井茂は、群集心理と模倣、暗示の応用によって、まず警察官の心理を操作し、ついで、模傚中心としての警察官によって民衆を感化することで、民衆への警察思想の注入を構想し たのである。
以上のように松井茂は、穂積陳重の模傚に関する研究の成果とタルドの「模倣の法則」を警察教育(狭義・広義含む)という政策に応用したのである。
この警察教育が漱石の死後展開されて行く国民皆警察という政策に繋がっていくのである。いわば「模傚」は松井茂の警察教育、社会教化事業を象徴する言葉なのである。
先に述べた被風刺者(模傚中心)の「人真似」(模傚)をする気をなくさせる風刺が持つ文学的な懲戒的効果は、松井茂の社会教化事業への攻撃にほかなら ない。