当時の日記より19@2009 2/18
ストレスのせいか下痢とめまいがひどい。具合が悪いから何もしませんというわけにもいかず。手が空いた時間に少し横になり、そして考えていた。アスペルガーってなんだろう、と。
ここ連日のバトル「食べられそうな物を挙げて」。想像して考えてみることが出来ないのはよく分かった。想像が難しいのだから相手の気持ちを考えて行動するなんてもっと無理。
もしかして視覚に実在する『物』しか捉えられない、大事に出来ないのがアスペルガーでは?
例えば思い出は記憶であって『物』ではない。という仮説で推察するとなんだか腑に落ちる。心にしまっておく無形な思い出は心にとどめておけないのではないか。『物』という実際の証拠にしないと消えていくばかり。姫にとって形のないものは存在していないこととイコールなのかも。
人は経験を積み重ねて成長してゆく。でも経験は『物』じゃないから実際に積み上げるのも重ねることも不可能。
『姫(母)の言葉は音』と定義したけれど言葉は『物』じゃない。だから姫の発する言葉は鼻唄レベル。発言の重みも責任もない。
人の気持ちが想像出来ないから、相手の発言もそうだろうと捉える。だから何度同じことを言わせても平気なんじゃないかって。
「どうして何度も同じこと言わせるの!」と私がキレても通じないのは、感情は『物』じゃないから。
逆に考えるともっと分かりやすい。買い物しまくって家中に溢れている『物』は姫にしたられっきとした証拠であり、思い出なんだと思う。
思い出ってふとした拍子に蘇るもの。それと室内の溢れかえっている物は同じ次元なんだろうと思う。
何処にしまったのか思い出せない。でもたまたま手に取ったら記憶が蘇る。
この前、浴用タオルを新しくしたら
「何処から引っ張り出してきたのよ。何処にしまったか覚えてないけどこれは大切な思い出だから使いたくないのよ!」
と大激怒。
その時私は、しまった場所を忘れてる時点で大切じゃないし。と思ったけど。
旅館の箸袋を持ち帰ってくるのも、収集癖じゃない。あちこちにしまって放置だから。それだって姫にとってはゴミじゃない。頭の中に記憶出来ないから物を思い出として実在させるしかない。
つまりこの家の中にある物の全ては普通の人が心に保管している思い出と同じだと考えればいいのでは?
現在タルセバの副作用で顔にも体にもすごい湿疹が出てる。毎日鏡で見るたびに具合が悪くなって横になると。今日は減った、今日は増えたと逐一報告されるのが苦痛で家中の鏡を全部布で覆った。私は嫌味のつもりだったのに、姫は目にすることが出来なくなったと大喜び。こんな風に目に見える物のみがこの世の全てなんじゃないか。
私はここ数年『なんて不幸な私』だと思ってきた。介護生活が始まった友人はひとりもいない。みんな何の苦労もなくやりたいことやって楽しんで(いるように見える)のに、なんで私だけ介護生活なんだよ。しかもただの介護じゃない。訳の分からない主張で押しきるモンスターを相手にしてるんだよって。
嫌いな母親との同居から3年。トータルでは介護人生15年目をむかえた。辛い辛いと思い続けてきたけれど、人より余計に何かを得られた15年と思えば少し救われるかな。