ほしを汲む
あやちゃんの絵は、忘れていた記憶を呼び起こしてくれる。
子どもの時に、こだわったり印象深かったりしていたことで、でもいつの間にか忘れてしまっていたことを思い出します。
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これは、私の姉が手紙に書いてくれた言葉だ。
姉に限らず、そう言っていただくことが増えている。
それは、どういうことなんだろう。
描くということ
絵を描く、というのはとても不思議な行為だ。
対象を目の前にして、自分を空っぽにして描いても「自分臭さ」のようなものが付いて回るし、逆に、慣れ親しんだモチーフを描いているのに、自分が無くなってしまうような感覚になることもある。
自分の中に無いものは描けない。
だが何かにふれたとき、いきなり、目の前にふうっと浮かぶものがある。
私はそれを描き留める。
何かを損なわないように、細心の注意をはらって。
これは一体、何なのだろう。
私はきっと
自分の中から取り出した、推敲もしていない言葉で綴るならば。
私はきっと、『森』のきわにいるんだと思う。
私たちが毎日目にしている現実が、明確で、迷いのない、正しい世界なのだとしたら、この『森』は、うっそうと草木が生い茂り、得体のしれないものが息づく、深く暗い世界だ。
サンは森で、アシタカはタタラ場に戻っていったが、どうも私はその二つの世界の、あわいに立っている感覚がする。
そして、自分にとって絵に描くということは、この森の中で、
ほしを汲む
ということをしているんだと思う。
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姉が森にそっと置いていった、ほし。
きっと森の中には、誰かの「ほし」がたくさんあって、それを私はすくい上げて、あったかいタオルでくるむような、冷たい水で汚れを落とすような、何かそういうアプローチをしている。
私はほしを素に戻して、再び空に戻し、遠くからでも見えるようにしたい。
あわいに立つという仮説から
自分はあわいに立っている、と仮説を立てれば、腑に落ちることがある。
本来、正常と異常とか、発達やセクシュアリティも、きっとあらゆることは曖昧なグラデーションなのだと思う。
世界に、ひとりとして同じ人間が存在しないように、自分の中にだって、「すごく常識を遵守して、きっちりしたいところ」と「他人にドン引かれるほど、大胆なところ」とか、【矛盾】がたくさんある。
大切なことは、言葉の手垢を落とすことだ。
【矛盾】を【問題】で、【解決すべき】ことだ、というところに囚われていないだろうか。私はずっと、そういうものだと思って生きてきた。
【問題】を抱え続けるのは苦しい。
だから、安心を求めてしまうのは自然なことだ。しかしそれが、自分の本質を「矯正」し、直視できない部分を「なかったこと」にしてしまうのなら。それって生木を割くようなことなんだと、最近になって思う。
私が絵を描き始めたきっかけは初めての子育てだったし、
現在も10歳になる息子と格闘する日々で、アレをしなさいコレをしなさい、と口うるさく言うことが、彼を「割いて」いるんじゃないか、と惑うとき『何と業の深い人生か』と、つくづく思う。
だから私には、そうやって切り離されたことたちが「ほし」に見えて、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
ここでnoteを書いているのも、同じこと。
私はずっと、ほしを汲んでいるのだ。
私の矛盾は私そのもの
坂口恭平さん『自分の薬をつくる』の中に、哲学者キルケゴールのこんな言葉が出てくる。
人生は解決すべき問題ではなく、味わうべき神秘なのだ。
坂口さんはこの「味わう」を、「第三の道として、研究する」という言葉で説明している。長くなるけど、以下に引用する。
ちなみに第一と第二の道は、「抵抗する」と「受け入れる」である。
(p.196から)
第三の道というのは、抵抗もせず、受け入れもせずってことなんですが、つまり、それは研究するってことです。どっちにも行けないジレンマを感じている人は、どちらかの道を選んでもいいのですが、それで苦しくなっている場合は、選ぶという方法じゃないということを、体が教えてくれているのではないかと私はいつも考えます。研究開始のタイミングってことです。
利点は選ばなくていいってことです。そして、研究すれば、自ずと第三の道が発生します。研究することは選択することから遠く離れていくんです。なぜならジレンマを感じているとき、それは矛盾とぶつかっているわけですが、矛盾を解決することばかり人は求めているようですが、そっちの方がおかしいんです。
私の矛盾は私そのもの。
きっとあり方はそのままに、「磨く」ことができるはず。
社会でひとと共生するための、やり方を身につけるんだという意識。
私は自分の中にある曖昧さをそのままに、世界へ手を伸ばしたい。
まだまだ感覚的な内容だけど、言葉に出来た部分だけでもノートする。
ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!