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父に思うところを伝えたら後から後から言葉があふれ出て止まらない話


この絵をヘッダー画像に使ってもらったnote記事は、とても多い。
ちゃんと確かめてきたわけじゃないけど、体感として。

紡がれた内容は、その数だけ実にさまざまで、いつか自分がこの絵を使って記事を書くときが来たら、私は何について書くのかなー、なんて呑気に思っていたのだが。

あっさりと、その時はやって来た。
ただ今私は父親に絶賛ぶつかり稽古中(比喩)という状況で、気持ちの整理をしたいからどうしても書きたい。
そうしたら、もうヘッダーはこれしか無いのだった。

どすこーい…

絶賛、ぶつかり稽古。

要は今、私は自分の気持ちを、父にメールで伝えているところなのだ。自ら父に気持ちを伝えるなんて、私の歴史の中では「革命」に近い。

事の始まりは、先日、父からレターパックが届いたこと。
父が送ってくる物は往々にして、開ける時に心の準備が必要というか、受け取ってあげたいから※こそ、反応に困るものばかりである。
(※この気持ちについては、後で掘り下げよう…)

大量の鬼クルミとかな。

父の送り物が困るのは、これをどうしろと?という送り方をしてくるところだ。

鬼クルミには、
『殻の割り方は自分で調べて。ちなみに鬼クルミは硬いから、クルミ割り器は使えません』
という主旨の書かれた、メモが添えられていた

だから、
これを、どうしろと?

私は困惑し、苛立つ。
父は鬼クルミが美味しくて、我が子にも食べさせたいから送ったのでは無い。
これだけ硬くて容易に割れない鬼クルミのことがとても興味深いから、我が子にも自分なりに調べて割ってごらん、と送ってくるのだ。

父は言う。
勝手に送ったんだから、好きにしていいんだ。アートの材料にしたっていいんだよ、と。

ううん、嫌だ、もうこんなの要らない、と言えたらどんなにか楽だろう。

以前、私はコーチングを受けたのだが、その中で『にしはらさんはNOを自覚できるようにはなってきたけど、NOを貫けてはないんですね』と言われて、そうだそうだ、NOというのは貫かないと無いも同じだ、と目からウロコが落ちたことがある。

私は父に対して、NOを貫けていないのだ。

私はまず、自分の気持ちを言葉にすることから始める。

気に入らない。

私が普段からアートの材料集めてます、と言っているのならともかく、勝手に送りつけておいて、自由に、といいながら私に何らかの処遇を『決めさせる』とは何様だ、要はお父さんは「負担」を送ってきているんだぞ。

潔く捨てるには、いくばくかの罪悪感。
ちくしょう。

.

今回送られてきたのは、ウクライナの民話を元にした子守歌の絵本、のコピーと、父による日本語訳。

添えられた手紙によると、
父は今年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻に心を痛めており、自身も終戦直後の生まれで、戦争で傷ついた人々を覚えている。戦争は絶対に反対、だから自分に出来ることを探して、色々行動する中で、かつてウクライナを訪れた際に土産でもらった絵本を、訳してみたのだと。
(父は数学者で、かつて学会のためウクライナを訪れたのだ)
綾子は子どもの絵を描いているから、もしかしたらウクライナの絵本や民話、子守歌に興味を持つかもと思って、
というのが父の意図だった。

ふーん、と私は絵本のコピーを手に取り、父が2週間かけて訳したという文章に目を通した。

原文は英語だった。

元はウクライナの言語で、それを英語に訳したのであろう、本だった。

その英文を、辞書を引き引き、訳したと。

は?
これだけ?

と、思った。英文なら、私だって読める。子守歌だから、容易な短文で構成されているし。
そして今時、AIだって翻訳も出来るのに、とさえ思った。

そもそも、大事な部分が欠けている。
父が、この子守歌を訳してみて、何を感じたのか、ウクライナにどんな想いを抱いているのかが、どこにも書いてない。
戦争反対の思いから、手近にあったウクライナの絵本を手に取った。ではなぜ、私に送りたいと思ったのか。

野菜を作ったらたくさんできた、と送られてくるなら、『食べ物』という価値観にそって、自分でどうするかを決められる。

興味が持てない、どこに価値があるのかが見つけられないから、戸惑うのか。
それとも、父が自分を開示せずに送ってきていることに、私は苛立つのか。

私は、そのまま率直に、父に伝えることにした。
困惑した、と。

私にはお父さんがこの子守歌を訳してみて、何を感じたのか、ウクライナにどんな想いを抱いているのかが全然読み取れないから、困惑した。
だから、ぜひ伝えてほしい。
学生のレポートも、調べれば分かる事柄の羅列で、考察が無ければ反応に困るでしょう。
それともこれは、探究の命題なの?
お父さんは子どもの頃からさまざまな探究を与えてくれたけど、いつも『自分で調べなさい』と言うだけ。私はいつも、自分で立てた命題じゃないのになぜ助けてもらえないんだろう、自力で取り組まなくてはならないんだろう、と、ずっと思ってきた、と。

私はもう大人だから、誰が何と言おうとも、自分の意見を持てます。
だからお父さんの思ったこと、感じたことを言ってください。
お父さんとは、自分の意見を交換し合える関係になりたいです、と。

.

.

.

父から、返信が来た。

予想通り、これは好き勝手に送ったのだから、『何かをしなきゃ』と構えなくてもいいんだ、と書いてあった。

そんな好き勝手は、個人に送りつけるには十分、重たいんだぞ。

だけど父は、頑なにこの方法にこだわる。
ブログでもSNSでも、web上に好き勝手書けばいいじゃないか、私のnoteみたいに。…と提案しても、不特定多数の人に読まれるのは嫌、と返ってくるだろう。

なぜならば。

父には、携帯をスマホに変えてから、写真を撮るのが楽しくなったようで、毎日、それは大量の画像をメールしてくる時期があった。
(今も時折)

画像の共有なら、メールよりLINEの方が便利だし、反応もしやすいよ、と言っても、LINEは嫌だ、母が繋がりたくない知り合いに連絡先が開示されて苦労していたから、と返ってくる。
そうなると、いくら大丈夫、ちゃんと設定すれば安心だよ、と言っても聞く耳を持たないのだった。

そうして私は、仕事より頻度の高い、父からのメールが受信箱の表示を常時埋め尽くすことに、強いストレスを抱えながらもなすすべが無くなる。

NOを貫けないのだ。

最初の方にも書いたけど、こんなの嫌だ、本当は受け取りたくない、と言いながら、何とか受け取ってあげようと心を砕いてしまうのは。

分かってる、

もう分かっているんだよ。

私が未だに、父から愛されたいと願ってしまうからだ。

私が先に歩み寄り、父を受け入れてあげれば、いつか父も、同じように私に歩み寄り、心を寄せてくれるのでは無いか。

未だに、そんな願いを捨てきれないのだ。

…無理って、分かっているくせに。

そうだな。

私もいい加減、何故ここまでこの変なおじさんに愛されたいと固執してるのかが、もう分からなくなってる。

父の返信は続く。
父が自分を開示しないのは、自分の解釈を押し付けるものでは無い、という考えだからだと言う。

解釈は持ってる。
だが意図を持って言わないだけだ、と。

私はこれに、カチンときた。
父はいつもこうして、押しつけないように間違ったことを言わないようにという正しさにのっとって、口をつぐんでしまうのだ。

今回だって、わざわざ送りつけてくるくせに、自分の考えを伝えようとはしない。
すごく、嫌だ。
正直な気持ちは、『きっしょい絡み方をしてこないで欲しい』だ。

だが私は、父たちのもとに庇護された子どもだった。
だから、父の思惑とは全く違うことに、私は今まで散々、父の意図を推しはかっては、それに振り回されて、疲弊しきるところまで追い詰められてきたのだ。

私は、ハッキリ言うことにした。

お父さん、表現者は明確な意図を持って創作をするものだよ。
そこに解釈をつけようとする考え、その解釈が押し付けになると思えるほど強くて正しいものだと思うことは、傲慢だよ。
なぜならば、見る者に感情や感覚の共有を起こさせたい、と発するのが、表現。
だから私たちが見る側に回るとき、私たちは「感想」を持ち、自由に議論するんだよ。
…と。

父からの返信は、どう返ってくるだろうか。
何だか怖くてまだ、メールの受信箱を見に行けてない。

父には難しいことを言っただろう。

昔から、一緒にドラマやバラエティを見ていても、分析し、解釈することしかできない父。
どこが良かった、感じた、と言う観点で、感動を分かち合うことのできない人。

父が『感想』を持てず、解釈しかできないのは、父が正しさの上にしか生きられない人だから。

どうしても、感情を、共有できない人というのはいるのだ。

だけど。

私はもう物分かりのよいフリはしないのだ。
今までの私は、なぜ私をとりまく世界はこんなことになってるのだろう、と理解したかった。

理解なんて何の役にも立たない。

私の心が喜ぶ、行動を選択しなくては。
だから私は、心臓をバクバクさせながら父のメールを打ち返す。

父に共感という概念が無いことなんて、知ったこっちゃない、私は家族で、父の子どもだ、私は正しさの国を出る、私はこう考えてるんだよ、と言い続けるのが、今のチャレンジだと思っている。

追記
父との会話って、常にこうだったなぁ、と思った文章。
自分の答えが決まっている会話に、付き合う義理がどこにあるんだよぅ、もー!

そして私は、父との関係へのネガティブな感情とバランスを取るように、

みのもんた

と呟く。
昔、父の祖母の姉、私にとっては何だろう?つまり『大おばあちゃん』が、

あやちゃんあやちゃん!
あのなぁ、テレビですっごく役に立つこと言うてたんや、おばあちゃんコレあやちゃんに教えたろうと思ってなぁ、メモ取ってたんや。

ほら、これな…

と差し出された紙に、記されていた言葉だ。

みのもんた。

内容なんていいんだ、私は大おばあちゃんが私に向けてくれた気持ちが、何より嬉しかった。

こういう嬉しい思い出も、ちゃんと私の中にあるじゃないか…

.

このハナシの続き。

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