あなたは私の希望です
昨日、午後からの入浴介助で一緒に働いていた後輩が口を開きました。
彼女は、私の働く施設で一番若い女性です。
20代の真ん中を過ぎましたが、高校を卒業してからずっと今の施設で働いてきたので、もう十分にベテランといっていい経験があります。
「おだんごさんの言うように、私、異動になりましたね。」
他の職員から、今回の異動の発表を受けてショックを受けているようだと聞いていました。
彼女の異動は、周囲の職員みんなが寂しがる異動でした。
みんなのアイドルでした。
物腰が柔らかく、いつも穏やかで、かわいらしく控えめな彼女。
中高年ばかりの職場で、彼女の存在は明るく温かな日向のようでした。
私は、モデルで活躍している藤田ニコルちゃんに似ているなと思っています。
これからあとは、ニコルちゃんと呼ぶことにします。
「ショックだった?」お年寄りの入浴が終わり、浴室の清掃をしながら、
私は彼女にそう尋ねました。
「はい。ここが本当に居心地がよくて、伸び伸びさせてもらったから、他のところで勤まるか不安です。」と言いました。
「そうだよね。ここほどいいところはないと思うよ。」私は答えました。
本心でした。私が今勤務する職場は、人間関係が良好です。
それはもちろん、様々な個性があり、意見の相違はあったり、相性の良し悪しはあったとしても、根本的に、思いやりのある人で構成されています。
理不尽な意地悪や、無意味ないじめなど、職場環境を濁すような事象がありません。特別仲のいい人が固まり、派閥のように徒党を組むこともありません。
いい意味でライトで、フラットな環境は仕事を円滑にしていますし、これはここに勤める全ての人の努力の結晶だと、私は胸を張っています。
そこから羽ばたくことの不安はもちろんだ、私はそう言いました。
「いいことだよね。早く出ていきたいなんてところから、飛び立つんじゃないから。ニコルちゃんにとってここが好きな場所だからだもんね。離れるのが嫌だなんて言われるのは、みんなが嬉しいよ」そうも言いました。
ニコルちゃんを異動させてほしいと何年も上司に進言していたのは私でした。
彼女は、高齢者介護に対して、常に真摯で、ひたむきでした。
自分の気持ちをうまくコントロールしながら、感情を平らにコミュニケーションをする忍耐力に長けていました。
お年寄りの痛みや悲しみに寄り添い、気持ちを重ね合わせる豊かな心も兼ね備えていました。
彼女と仕事をするうえで、年上の私が心の中で感嘆を上げたことは一つや二つではありませんでした。
彼女の仕事ぶりをみて、自分を省みて、落ち込むことも奮い立つこともありました。
人間的に成熟しているのは彼女の方だと感じていました。
私が、今の施設に異動してきてすぐのころ、彼女から資格取得の相談を受けました。
私は、自分がやりたいという人を応援すべきと当時から考えており、上司に彼女に勉強の機会を与えてほしいと進言しました。
当時の園長は、彼女が若いから、まだ早いという理由で彼女と私の希望を一蹴しました。
代わりに研修に参加したのは、彼女より勤務年数の長い年長の男性でした。
当時、その人は、命令だから行かなくてはというスタンスでした。
私は心底、自分の力不足を感じました。
翌年以降、その資格取得の研修費用は、各自個人負担となりました。
他の施設で、資格取得を援助をうけて取得後に退職するケースが続いたためです。
資格取得にかかる費用は高額で、私は彼女に勉強をさせてあげる機会を与えてあげてほしいと意見することすらできなくなってしまいました。
このことは、何年も私の後悔として残りました。ずっと申し訳ないと感じていました。
あの時、私に話してくれた彼女の顔を忘れることができないのです。
私の勤務する施設は、所属する法人の中でも比較的小さな施設のため、職員数も少なく、外部の研修に行かせるには大きな負担があります。
それでも、私が真剣に学んでいた認知症のコミュニケーションの研修や、これはどうかなという研修を、彼女に勧めたこともありました。
行ってくると感想を聞かせてくれ、私が想像していたより多くのものを学んで帰ってきました。
ああ、もっと彼女の力を伸ばしてあげたいなあ、もっとたくさんの世界を見せてあげたいなあ。彼女は、私にそんな気持ちを抱かせる後輩でした。
「環境が人を作る。役割が人を変える。」鴻上尚史さんの言葉です。
若いころ、鴻上尚史さんの舞台ばかりを見ていた時に出会った言葉です。
私の心には、いつでもこの言葉があります。
人を作るのは、人ではなく環境と役割。そう思うことで楽になることが沢山ありました。
ニコルちゃんをさらに、魅力的な人間に、介護士に成長させるためには、新しい舞台が必要でした。
例え、信頼のおける可愛い後輩だとしても、いつまでもその成長を近くで見守りたいと願う大切な後輩だとしても。
ニコルちゃんのような、才能と可能性のあふれる若い人に刺激とチャンスを下さい。いろんな経験をさせてあげてください。
今年、やっとその願いは届きました。
異動の発表は2回に分けて行われました。1回目の人事で、自分のことを諦めて切り替えていた私に、2回目の人事は非情でした。
自分の一番の理解者である上司は、異動が決まりました。
栄転で喜ばしいに越したことはないのですが、また、話を聞いてくれる人を失うのかと絶望しました。
自分より後輩の昇進や、波風をたてず口数の少ない印象の人の昇進に、心が荒れました。自分が本当にダメな人間に思えて悲しくなりました。
あんな思いまでして手放して手に入れたものが、一気に遠くに行きそうで、
揺り戻しだなと感じました。
今、少し時間が経ち、また、少しずつ自分の見定めるものを取り戻しています。
こだわりを捨てることは容易なことではありませんが、それでも、もう揺り戻しに抗うことを体が少しずつ覚えてきたように思います。
自分の足で立って歩くしかありません。
その中で、たった一つの光。
それが、ニコルちゃんや同世代の職員の異動でした。
「ニコルちゃん、ニコルちゃんはね、私の希望だよ。どこに出しても恥ずかしくない、必ずみんなに愛される。だから、新しい職場でも十分にやっていけるよ。大丈夫!!」
私の言葉に、少しニコルちゃんは笑いました。まだ不安でしょう。
私が進言し、異動が決まったことを知ったら恨むかもしれません。
あなたは私の希望です。あなたの成長と活躍が私の希望です。