1回、キスしてもらえませんか?(創作)3話
3話 森田の場合
企画書にはこうあった。
1人目 森田。 森田酒店店主 40歳 独身
椿山中学同級生。お調子者のお人よし(主観)
中学時代3回告白されて3回断った経験あり。好意は消えたとて、思い出が味方することを加味し勝機ありと判断。
持田は、企画書と呼ぶには拙いその文面を思い出す。
最中と森田がそうなったら、なんかやだな。と
思う。
なんかやだ。だなんて。俺は全く素直が過ぎる。
ただ、持田は思う。
最中が思うほどに森田は簡単ではないと。
それは別に都合の良い解釈ではなく、森田は
手始めの相手として、難解すぎる。
持田は洗濯物を畳みながら、娘の小さなスカートを持て余していた。
どの畳み方が正解かわからない。小さなスカートは畳むとふわっと折り目に反して開いてしまう。
☆☆☆
その日、最中は仕事終わりに森田酒店に寄った。
森田が経営する酒屋は、奥に立ち飲みスペースがある。いつもちらほらといる常連も、月曜日には少ないことを知っていた。
店には、ちょうど森田しかいなかった。
チャンスである。サクッとちゅっとしてもらおう。
こんばんは〜!森田。久しぶり!
務めて明るく機嫌の良い声を出した。お願い事にきたのだから礼儀正しく振る舞うべし。
酒の在庫をチェックしていた森田が振り返る。
安藤?えーっ!何年ぶり?おー!珍しいな。いらっしゃい。
森田は最中を旧姓で呼んだ。
結婚もしていないのに旧姓とは。
最中の中学卒業とともに、父と母は離婚した。
安藤和菓子店というこの街の老舗が、最中の生家で母は安藤家の1人娘だった。
父は、瀬戸大海(ひろみ)という少し名の知れた画家だった。
最中は、安藤家の懇願を振り切り父と家を出た。
弱いものいじめをしてはだめよ。と教えたのは母だ。
父について出たのは、母の教育の賜物だ。
森田の知っている私は、安藤である。ただ久しぶりに聞いたら、安藤は随分私から離れてしまったことに気づいた。
私さあ、安藤から瀬戸になったんだよ、森田。
森田は、何かを思い出して、表情を変えた。
ごめんごめん、俺本当にそういうとこだわな。
お前に3回振られるのも、今ならわかる。
ごめんな、最中。最初から名前呼べばいいのにな。なんか照れくさくて、苗字を選んでこのザマだ。
早口で、手を顔の前で合わせて頭を下げている。
全然いいよ。森田。実はさ、頼みがあるんだけど。
頼み?最中の頼みなら、俺にできることならするよ。なんだ大量発注か?仕事の関係?
違う違う。あのさ、私と1回キスしてくれないかな?
最中は、言葉に湿り気が帯びないようにただ目を逸らさずに一息に言った。
森田は、キョロキョロした。
何、ドッキリ?動画撮ってんの?と聞いた。
いやいやいやいや。最中は思わぬ反応に全力で否定した。
ないないないない。そんなことする意味ないわ。と慌てた。
森田は言動も唐突な上に、挙動不審が過ぎる最中を訝しんだ。
最中。よく考えろ。久しぶりに、何十年かぶりに同級生が店に来る。しかも、それが自分の初恋と言っても過言ではない相手だ。
40になっても、充分に可愛くて眩しくて、なんだか嬉しくなるような健在ぶりだ。
で、頼みがあると言う。そりゃ聞いてやりたいよ。からの、これ。信じられるか。まず、信じられないよな。なんかの罠だと思うわな?
中学時代の森田は、決して勉強ができる方ではなかったが、この奇怪な状況を実にうまくまとめた。頭の回転はピカイチのクラスのムードメーカーは健在だった。俯瞰で物事を捉えていたから、先生のモノマネも得意でよくみんなを笑わせていたな。
特に、近田先生という変わった先生のマネがうまかった。そんな関係のないことを思い出してしまった。
最中、聞いてる?森田はぼんやりとしている最中に声をかけた。
あっ、うん、聞いてる。森田、1回でいいんだけどさ。ダメかな?
最中、俺をたぶらかさないでくれよー。安く見積もられたもんだよ。俺は悲しい。
森田は顔を顰めた。
なんで1回なんだ。遊びか?ゲームか?
1回だけキスしたいって、おまえ、俺のこと好きじゃないって言ってんのも同然だからな。
遊びでもゲームのつもりでももちろんなかった。ただ、好きじゃないのところは衝撃だった。私、そんな失礼してるの?
最中としては、相手への最大限の配慮のつもりで、低いハードルに設定した。
最中はただしてみたいだけなのだ。
理由なんてない。意味付けもない。
キスがもたらすものとはなんなのか?
ただ誰かに触れて、それを知ることで、自分が今まで背を向けていたものと仲良くしたかった。
でも、それを森田にうまく説明できなかった。
最中が思案していると、森田が口を開いた。
最中、俺はご存知の通り、40だ。もう遊んでいる暇はないの。おふざけで気軽にちゅっとなんかできないんだよ。結婚前提のお付き合いを見据えたキスなら受け入れようじゃないか。
真面目か?最中の口から思わず本音が溢れた。
おまえ、やっぱ、俺のことバカにしてんな!真面目だわ、お前に告ったあの頃から一貫して真面目だわ。じゃなきゃ、酒屋継がねぇよ。
真面目で臆病だから、こうなってんだよ。
真面目に決まってんだろよ。森田はため息をついた。
森田は、最中からみたら、いつもお気楽で明るくて、下品なことを言ってガハガハ笑っていても、ちっとも人を不快にさせず、誰とでも仲良くて、誰にでもちょっかいを出しては、笑顔を引き出していた。
森田のこと、本当には知らなかったんだ。
森田は真面目に道化ていたのだ。
それは自分を臆病だと言い切る森田の方法だったのだろう。
黙っている最中を見て、森田は焦りだした。
何?最中、黙るなよ。落ち込んでんなら勘弁しろよ。お前が言ってることがおかしいんだぞ。
あとな当てつけでもないぞ。お前がうちを継がないことにいちゃもんつけてるわけじゃないからな。
私もさ、臆病なんだよ。森田。最中は言った。
森田の好意をはぐらかしたのも、恋なんて煩わしいと決めつけていたのも、始まれば終わるなんてとらわれていたのもさ。
臆病の仕業だよ、森田。ごめんね、森田を傷つけることより、自分が傷つかないことを選んでばかりで、ごめんね、森田。
最中は、森田に謝れたことに胸がいっぱいになった。
あの頃の私は、森田に誠実ではなかったから。
最中、俺はおまえの提案を受け入れることはできないよ。正直、惜しい気もするけどな。でもな、おまえはやっぱり大事な友達だから、これ飲んで元気だせ。
地元のクラフトビールは、還(かん)と名付けられていて、夏みかんいろのラベルが小瓶に貼ってある。
ここにキスしろってか。と最中は飲み口を指す。
まあ、そういうことだな。と森田は笑う。
最中は気づいていないだろう。
森田のセリフは15歳の森田が振られた時に、最中に言われたことをそのまま返した。
森田、私はさ、森田の提案を受け入れることはできないよ。正直、惜しい気もするんだ。けどさ、森田はやっぱり大事な友達だから、これ食べて元気だせ。
森田の手をとり、最中が握らせたのは安藤和菓子店の、最も最中(もっとももなか)だった。
愛じゃなくて餡ってか。と森田は精一杯で言った。
まあ、そういうことだな。とあの日そう言って最中は笑ったんだ。
店を出ていく後姿の最中をみながら、
正直惜しいどころの騒ぎじゃないけどな。と呟きながら、それでもなんとなく最中のことも自分のことも腑に落ちて、気分がよかったのは内緒だ。