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ダイバーシティーについて話すことのこわさについて

これは、ばばばのひとりAdvent Calendarの21日めの記事です。

なぜ この記事をかこうとおもったのか

2024年はだむはさんと話したり、彼女の話を聞いたりする機会を何度かもらいました。だむはさんはジェンダーギャップをビジネスで解消する取り組みをしていて、彼女の言葉にはいつもエンパワメントされます。

その反面、私自身はジェンダーやダイバーシティーについて、だむはさんのようにストレートに語ることに、どうしても躊躇してしまいます。もちろん、今の環境で何か不利益を被ったわけではないですし、宣言したことが直接マイナスになる可能性もあまりないと思っています。
それなのに、なぜ「言葉にするのを怖がってしまう」要因があるのだろう、と不思議に感じたんですよね。

日々、どんなことを感じているのか


私は今の会社での勤務が長く、はじめての女性社員でした。産休や育休をはじめて取得した社員でもあるんです。だからか、何か行動するときに「これが女性の“前例”になっちゃうのはイヤだな…」と思うことがありました。
例えば、育児期間中は自分の意志で時短勤務を選択し、出張も断っていましたが、それが後に入ってくる人の活動をブロックすることになったらイヤだな、と思ったり、バレンタインデーには「絶対に誰にもあげないぞー」なんて思ったり。飲み会でとりわけをしないのは、単に気が回らないだけなんですけどね。

また、登壇などを頼まれたときに「もしかして女性枠で声をかけられたのかな?」と考えてしまうこともあります。

なぜこわいのか

人間って、誰しもバイアスがあります。私にも当然あるわけですが、マイノリティにいると、ハラスメントではないにしても、ちょっとした「もやっ」を感じる場面はどうしてもゼロにはなりません。

そんな状況でジェンダーについて話すことの「何が怖いのか」と考えると、一つは「自分の感じたことを表現すると、所属している組織を批判していると思われそう」というところが大きいんです。いまも「どう書いたら、今の環境がジェンダー関係なく働きやすいってことを毀損しないまま、自分の考えを表明できるんだろう?」と、もんもんと悩むことがあります。

もう一つは、「自分がマイノリティの代表になってしまいそう」というプレッシャーです。自分で勝手に自分にラベル付けしてしまい、「バイアスに囚われて身動きが取れなくなる」ような感覚があります。まるで「自分にかかってる!」と過度に思い込んでしまうのですが、それはただの妄想ですよね。本来ならば、もし妄想が現実になりそうなときに初めて議論を始めればいいだけの話です。

なにをつたえたいのか

こうして「自分は何を怖がっているのか」を書いてみると、でもやっぱり伝えたいことが少しはっきりしてきました。大きく3つあります。

ひとつは、複雑系をそのまま受け入れるスキルと強さをもつことが重要なんだろうなあ、ということ。あらたまさんの記事にも以下のようにあります。

答えは「個に向き合うこと」なのではないでしょうか

https://note.com/ar_tama/n/na05164cd7e33

これはつまり、「こういう人はこういう傾向があるだろう」という大きな分類(バイアス)で情報処理する楽なやり方を、あえて選ばないということだと思います。そしてバイアスは自分にも適用してしまうもの。そこをぐぐっとスローな思考のほうに持っていくには、それなりの強さも必要だな、と感じています。

2つ目。20年で人の「バイアス」が本当に変わる、ということ。かっこいいと思うこと、うれしいこと、かなしいこと、むかつくこと——こういった「常識」は、今は「こうされたら当然こう思うでしょ」ということでも、20年たつと見事に変わっているものですよね。だから、そこに普遍性はなくて、感じたことに正しい・誤りはない。もやっとしたなら、そう感じた自分を否定しなくていいんですよね。

3つ目は、自分のもやもやを共有することは、周囲を批判しているわけではないということ。これはなかなか難しいのですが、もやっとしたからといって、誰か個人を批判しているわけじゃないんですよね。そこをうまく説明できるようになりたいと思っています。

個人を批判せず、仕組みを変えていこう

個人的には、私はあまりこの分野で悩まずに、人生を送ってこられたほうだと思います。でもそれは、私がラッキーにも恵まれた環境にいたからだと知っています。誰もが「自分の成長を感じられて、自分の人生のハンドルを握れる世界」にしていくためには、個人を批判するのではなく、社会の仕組みや構造を変えていくことが必要ですよね。そうなってほしい、と心から願っています。

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