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阪神淡路大震災から30年〜人生について〜②
〜①からの続きです〜
無事脱出した私が発したのは「地球どうなっちゃったの?」と
母に聞いている自分です。
ご近所のおじちゃんおばちゃん、周りの大人たちが
さあどうしたものか・・・とすでにこの現状を受け止め
明らかに前向きな会議と行動をとっていたのは今思えば分かるが、
まだまだお子ちゃまの私は(ってもう高3ですww)
途方に暮れて佇むしかなくって、
同じように腰が抜けて立てなくなっている祖母に寄り添って
ただ様子を見守っていたら、
視界に火が見える
家事や!
あの火はこちらへくるの???怖い!どうしよう!!
とにかくあたりは家が全て崩れていたので、アスベストなどの粉塵で
夜が明けても真っ暗なのと、目がよく見えなくて
火がこちらに向かってくるように見えていた。
けど、実際には・・・火は長田の火で、
私たちの須磨の地域までは迫ってこなかった。
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私は怪我もなく脱出しましたが、
実際にうちの家は、家が真っ二つに裂けてちぎれ、
片方は地下室へ落ち込み、
父はおでこに切り傷を負い(まるでじゃりン子チエのコテツ🌛)
母はタンスが倒れ込んだ隙間にいたけど、一歩踏み出した際に人形ケースを突き破り足にガラスが刺さったのを抜き取ってから、
なぜかポケットに「止血帯」と「私の臍の緒とお守り」が入っていたらしく
(さすがスピリチュアル家系)
その止血帯で止血しながら
父が「母さん!1階になってるぞ!」という声の方へ脱出したそうです。
その後、止血帯を父の頭にぐるっと巻いて使用。(だからさすが!しかない)
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そこからは、近くの国際学校へ近所の人たちで集まり、
非公認の避難所だったので地域の住人たちでいろいろルール作りや整備をして
そのうち食料も届くようになったけど、
正直他の避難所とは比べ物にならないくらい貧そだったらしい。
でも私は毎日敷島パンのメロンパンを食べてホクホクし、
父はココナッツミルクを喜んでもらっていた。笑 (この親子よ・・・)
避難所へは高校の担任の先生や水泳部の顧問の先生も訪れてきてくれて
担任の先生は西宮のマンションが横になったらしい。(よく生きていたことよ!)
避難所から制服を着て、徒歩とバス、そして西宮からは阪神電車で学校へ通い
卒業前の試験はなくなり(やった〜!w)卒業式の練習も1回だけになり
私は高校を卒業した。
(避難所ではすぐにインフルエンザになって一時的に須磨の名谷地域の
幼馴染のお家にお世話になったけど・・・その後避難所へ戻り、
そして父の仕事の知人の知人なのか?空き家を借りて東加古川へ移り住んだのです)これが、3月末か?な?
晴れて大学生となり、女子大生!って華やかな日々と思いきや・・・
避難生活の中スタート。
大学には特別に奨学金を申請して、自分でバイトして学費を奨学金の返済に当てながらの学生時代となりました。
何もなければ水泳部で選手を育てるとかボート部で選手になるとか思っていたけど、社会に出てすぐに役立つようにと考えて
スイミングスクールで水泳指導からフィットネス業界へ・・・
バイトは、スイミングコーチ+フィットネス+コンビニ+家庭教師と
多い時期には4つ掛け持ちという大学生活。
すごいぞ私!!若いってすごいな!wwww
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震災を経験して、人生観がガラッと変わったのは私だけではないと思う。
「モノはいずれ崩れ、なくなる」
そういう思いが根底にあり、物欲というものが本当に湧かなくなった。
「諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・」
今思えば、ずっと平家物語の冒頭の文が頭の中でぐるぐるとしていて
何かをしよう!とする際に・・・
「まあどうせこれも、今だけだわ」と表向き華やかなだけとか、
金メッキのような事柄に対してことさら、どうでもいい感が常にある。笑
興味があるのは、
「本当の美しさや純粋さ、そのもの本来のエネルギーや価値を感じる時」
だからこそ、流行の先の先を読んで
自分で流行を起こすことを心掛けていたように思う。
今でもそうだけど、私が
流行に乗らない「天邪鬼」な感じはこういうところからも来ている。
ここから私はダンサーとトレーナーという夢を追いかけながら
勤労学生をすることになる。
必死に生きてきた今・・・30年後の今、
ちゃんとダンスパフォーマーとなっていて、
そして
ピラティスやダンス、スピリチュアルヒーリングを使った
身体とココロのパーソナルトレーナーになっているのです。
人生はどう生きるか?
しかないのだと思う。それは
自分がどう生きるか?しかない。
誰のせいでもないのです・・・今の自分をそのようにしたのは
まさに、自分の責任であって、誰のせいでもない。
ただ純粋に、自分に向き合って一生懸命生きてきていたら
その向き合い続け、自分と戦い続けてきた日々の中のエネルギー溢れる時間は
輝きをまし、財産となりその人となりを形成してゆくのだと思うし、
それが「人生」であると思っています
「人」がどう「生きるか」が 人生
「命」の「使い道」が 使命・・・そして
「命」の「運ばれ方」が 運命
何度もいうが・・・モノや地位や肩書きは
いずれなくなるものなのだと。私は伝えていきたい。