招かれざる客、的な気持ち
外出しようとするほんの小さなやる気を押し返すほどに、雨がざーざー降り続いている。
大人だから、雨がどれだけ激しかろうが、家にこもっているわけにもいかない。洞穴で日が差すときをじっと待ちわびる、ネズミのような心持ちでいたいところだが、のそっと靴を履く。
雨粒のはね返り(はねっ返り、と打ちかけて、それでは意味が違ってしまうなと書き換える)を肩やパンツの裾なんかに受けながら、被害を最小限に食い止められる道を慎重に選ぶ。水たまりのない安全地帯へ歩を進めようとしたとき、逆側から歩いてきた人も同じ動きをしようとしていて、運悪くタイミングが重なってしまうこともある。我先にと安全地帯へ足を踏み出すのは何とも格好悪いので待機するけれども、妙な気まずさが生まれる。
このように、晴れの日の5倍は気を遣って歩かねばならない。
雨を何とかくぐり抜け、目的地に到着する。これが駅であれば良いのだが、飲食店などの類だと、途端に自分が「招かれざる客」であるかのような気分になる。寒い時期なんかは、尚更そうだ。
ハンカチではぬぐい切れなかった雨粒が身体やカバン、靴などのあらゆる箇所にくっついている。温かく、時間がゆったりと流れる店内の落ち着きと比べて、私の身体は外気をたっぷり纏っていて、空気を乱してしまっているように感じる。
中に通され、上着を脱ぎ、椅子に座り、注文の内容について迷う、という一連の流れを経て、だんだん身体は温まり、私も店の一部となって周囲に溶け込んでいく。
そうして、ようやく「客」になったなと思えるようになる。
どうして、寒い雨の日には、室内に対して自分が異質な存在であるように感じるのだろう。
『千と千尋の神隠し』で、カオナシが湯屋の中に入ってくるのも、雨の日。雨に濡れるカオナシに対して千尋が声をかけ、扉を開けたままにしたことでカオナシを招き入れてしまう。この事態に対して、湯婆婆は「雨に紛れて、ろくでもないものが紛れ込んだかな」といったことをつぶやく。
『マスカレードホテル』で、長倉麻貴がホテルを訪れるのも、冷たい雨が降る日。この情景が、思わぬ結果を招くこととなる。
暖気と、寒気。乾きと、湿り。
室内と比べてみたときに、訪問する側が、好ましくない二つの要素(寒気と湿り)を持ってしまっているからだろうか。実際、寒いうえに雨にまで降られると、心が少し弱っているときなんかは、人混みのなかで親の姿が視界から消えてしまったときのような心細さが思い起こされる。
私たちは、太陽光に接すると、生き物として本質的に身の安全を覚えるからだろうか。エアコンも電気も、普及したのは人類史上ではごく最近のことだ。日がないと、どこもかしこも薄暗く活動しにくい。身体の免疫も弱る。
寒くて濡れていると、何だか不安になるのはなぜなんだろう。
そんなことを思いつつ、招かれざる客ではなくなった私は、店を後にした。