欲望を取り戻す
欲望と嫉妬
欲望を取り戻しつつある。
意欲、とも言い換えられるかもしれない。
真っ直ぐな、「あれがしたい!」という気持ちが湧き、素直にそこに向かうことができるようになってきた。
いつの間にか難しくなっていた、欲望の実現までのいろいろな障壁やねじれが少なくなってきた。
欲望を取り戻しつつある中、自覚するのは、私の中にあった「できない」への猛烈な悔しさとか、美しい才能や憧れるようなあり方への強烈な嫉妬心の存在だ。それらの感情があまりに強すぎて、欲望ごと封印していたのかもしれない。
自分が何かを表現するときも、教えるという立場で人と関わるときも、私の中に透明に輝く美しさのようなものがあって、それをただ感じていれば良いのだとわかってきた。
その、「透明に輝く美しさのようなもの」は、ある意味永遠に到達できない頂きのようなもので、そこに到達できないことを悔しがることも、現在地点とのギャップに不足感を感じる必要もないのだ。
なぜ、あんなに「目指したいところ」と「現状」とのギャップに悲しさや焦り、苦しさ、パニックのようなものを感じていたのか・・。
「まだこんなに足りない」「もっとできるはずなのに」と、ことごとく、自分のやることやあり方に対して、ダメ出しをしてきたのだなと、今になってわかるようになってきた。
私の目指したいその美しさに、少しずつでも近づけばいいのだ。
今回の人生、次の人生、その次の人生、少しずつ近づけばいいのだ・・・と思うようになって、やっと、目の前の一歩・目の前の一手に落ち着いて集中できるようになってきた。
もうずっと本を読むのが難しかったのだが、ここ最近本が読めるようになってきた。
美しい文章を読んで、「私はこんな文章書けない」「こういうことをまさに私も思っていた(私もこんなことを書きたかった)」と嫉妬心がかき立てられ、その苦しさを回避したくて本も何もろくに読むことができなかったのだ。
そんな強烈な嫉妬心を持っていたことを、そもそも自覚していなかった。
そして、それを自分を責める材料として使っていたことも自覚していなかった。
長い思春期だったのかもしれない。
嫉妬心を感じられるようになった今、「ああ、嫉妬心だ」と、それを愛しきものとして見ることができるようになってきた。
そうすると、他の人の表現が持つ、美しさや、聡明さや、物事が言語化される爽快感・・・そういう善きものをただ感じられるようになってくる。
嫉妬心と、意欲は私にとってはセットパッケージだったのかもしれない。
嫉妬心を取り戻し、私の中にある理想をただそのままに感じる、ということができるようになってきて、意欲が戻ってきたのかもしれない。
「仕事」と「勉強」を言い訳にしなくても良い
これまでは「意欲」(やりたい!)→「現状とのギャップ!」(自分責め!無自覚の嫉妬!)→苦しい!できない!苦しい!のサイクルにいた。その苦しさを回避するためのか、「あれがしたい!」の意欲が湧いてきた時には、そこに気づかせない・集中させないというパターンを長く維持してきた。
「外的な理由がないと集中してはいけない」というパターンでもあった。だから、集中できるのは「仕事」や「勉強」・「締め切り」というセッティングばかりで、本当はそれがしたくてやっているのに、「仕事だから仕方なく」「勉強だから仕方なく」と誰にともなく言い訳をしないと集中できなかった。
「仕事」=嫌なこと、やらないといけないこと、避けたいこと
「勉強」=嫌なこと、やらないといけないこと、避けたいこと
この図式を、使う必要もないのに便利なテンプレートとしてずっと使ってきた。
脳みそがショートしそうなくらい仕事をして、今日やっておきたかったことが終わって、「あー、終わったー!疲れたー!」と言って家に帰る・・・
実は、そんなことが好きな私がいると気づく。
「仕事」、好きなんだなー!
今の仕事では、「仕事」も「勉強」も「好きなこと」も「好きなことのために必要なあれこれ」も、どれも境界線がとても曖昧で、私が私として活動することは全てが「仕事」であり「遊び」であり「勉強」である・・・と言った方が正確かもしれない。
*便宜上、社会生活を送る上では「今日は何時から何時まで勤務した(裁量労働制なので)」「この打ち合わせは業務の打ち合わせである」など、「仕事」と「それ以外」を区分けする必要が出てくるが。
私が、「意欲」を実現するために、「仕事だから」「勉強だから」の言い訳をもう使わなくてもいいんだなー・・・と感じている。
嬉しい。
Twitter上でお友達になった方から、新しい本を送っていただいた。
「わあ!!!早く読みたい!」
意欲→行動がスッキリしているのがとても気持ち良い。ワクワクする。楽しいのだ。