失われし日本のナショナリズム(自尊心)を平和的に健全に回復する方法
失われた自尊心とこじらせた対米意識
「減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。」
舞城王太郎の『阿修羅ガール』はこんな出だしで始まります。自尊心が失われるということは、自分を肯定できないことにつながる。何をするにも自分を信じられない。だから他人も信じられない。
今の日本は、失われた自尊心が回復しないまま戦後70年を超えてしまったのではないでしょうか。
5年前の安保法制もそうでしたが、今回のトランプ大統領来日で、いわゆるリベラル(左派・護憲派)と分類していいであろう方々が、アメリカに対する日本の過剰適応(に彼らには見える状態)に激しい怒りをぶつけていました。それは安倍総理自身に対する反発心を差し引いてもかなりの強さを持った反米姿勢だったと思います。
私も親米保守には疑問を感じる程度には反米ですが、「そうか、そんなにアメリカが嫌いなのか……」と今回も、5年前も思いました。これは結構大きな発見でした。「左派の皆さんは、(右派とは違って)戦後体制を肯定していると思ってたんだけど、違うのか……?」という次の問いが見つかったからです。
右派と左派を分けるもの
「左派であるか右派であるか」を分ける一つの分岐点として、弁護士のhoriさんはnoteに「日本で「右」と「左」が噛み合わない理由をわかりやすくイラストにしてみた」という記事をアップしていました。つまり、「戦前を肯定するか、戦後の歩みを評価するか」。一理あると思います。どこまで肯定するかの程度問題はありますが、確かに「戦前をすべて否定してほしくないし、戦後体制なんて問題だらけじゃないか」という人が右派であるとは言えそうだし、戦前回帰を何かにつけ警戒し、憲法を金科玉条のごとく大事にしている左派は、基本的に戦後の歩みを肯定してはいるでしょう。
では対米関係はどうなのか? 日本は戦後から7年にわたってアメリカ(連合軍)に占領され、占領が終わってからも米軍基地は置かれたまま。これに対する左派の反発は戦後一貫して続いており、現在は沖縄でまさに噴出中です。今回訪日したトランプ大統領をもてなした安倍総理は「対米追従の権化」「アメリカの犬」とまで罵られる始末。
戦後体制という大きな枠の中には、在日米軍基地も当然、入ってくる。左派は「戦後体制」だからってすべてを肯定しているわけじゃないということになります。むしろ、対米関係では右派よりも「戦後体制に批判的」では?
近年では、米軍基地のみならず、日米地位協定や日米合同委員会、横田空域に至るまで、「米軍(米国)支配と言えそうなもの」に左派から批判の声が上がるようになりました。これらすべて「戦後体制」の賜物です。
翻って右派は、もはや「在日米軍は必要悪」を通り越して「あってしかるべき」というところまで来てしまっています。それは中国の存在があってこそではありますが、「在日米軍をゆくゆくは国外に移転してもらいたい」という前提付きで話している「右派(保守)」は探さないと見つからないくらい少数派になっています。「戦後体制」から脱却したい、日本は自立せねばと願ってきたのが右派のはずなんですが、おかしいですね。
しかしさすがに憲法だけは、実務的(自衛隊の運営上)問題もあるので改憲したい。そして第一次安倍政権はこれを含め、教育、GHQの影響などもその対象として「戦後レジームからの脱却」としてきたわけです。今はもう言っていませんが。
いずれにしても、戦後のアメリカとの関係を含む日本の歩みの中で、右派と左派が問題視しているものを「戦後体制」という箱の中に放り込んでみれば、いずれの立場もアメリカとの関係において清算しきれていないものがある、という意味では一緒。アメリカをこじらせているというか、占領の呪縛はまだ解けていないということになります。
事実そうなのです。日本は主権を回復したものの、日米同盟には片務性があり、地位協定はあり、憲法で戦力を持つことを禁じられている。これは占領政策の継続です。
ではこの戦後体制=占領政策の継続を私たちはどう乗り越えればいいのか。
占領政策の呪縛をどう乗り切るのか
一案としては、「右派が(否定すべき)戦後の象徴だと思っている憲法9条を改正すると同時に、左派が(否定すべき)対米従属の象徴だと思っている地位協定を同時に改正・改定する」ことでしょう。実際、九条と地位協定はセットで存在している。この点については左派からも「地位協定という対米従属から逃れるためには憲法も考えなければならない」というところまでは声が上がり始めています(例えば矢部宏治 『知ってはいけない』シリーズ)。
右派はこれに気づいていないのか、左派の意見だからとその意図を警戒しているのかわからないですが、今のところキャッチアップする声がありません。しかしこの場では積極的にキャッチしてきましょう。
これがハードの部分。そして同時にもう一つ、この「占領の呪縛」「対米従属という亡霊」を振り払い成仏させるために必要なことがあります。というか、これができればハードの部分もおのずから、変えようという話になってくるかもしれない。
それは、「日本が主体的に、国際社会への貢献を行っていく」という共通理念を国民が自発的に持つことです。
それはどういうことなのか?
「戦後の国際社会の体制」は右も左も大筋で支持
右派であれ左派であれ、もちろんすべてを全肯定してはいませんが、「戦後にできた今の国際社会の体制」について根底から否定してかかっている人はそう多くないと思います。つまり、もう一度、中国やアメリカを相手取って戦争をして戦勝国となり、自国の主張が他国よりも勝り、現在とは違う自国の理念に基づいた国際基調を確立したい、その中心にいるのは日本でなくてはならない! なんて思っている人はおそらく日本にほとんどいない。
今と違う国際社会の在り方を、どんな犠牲を払ってでも押し通したいという人はもういないでしょう。共産革命を企図していると思っていた共産党ですら、戦後体制を守る側についているわけですから。冷戦が終わった時点で、「世界観における対立」は、程度問題はあれどすでに日本ではなくなっている。
右派であれ左派であれ、おおよそでは、現在の国際社会の方向性に歩調を合わせていきたいと思っているわけです。
今の国際社会の中心にいるのはアメリカ。国連という機関があっても、ビッグな力を持っているアメリカは国連を振り切ってでもやりたいことをやってしまう。「そこに巻き込まれたくない!」という人たちが、「安保法制を通して、アメリカの都合で始まる戦争に駆り出されたらどうすんだ!」と反対してきた。
では右派のどのくらいの人たちが、「アメリカの戦争は正しいから一緒にやるべきだ!」と思っているのか。中にはそういう人もいます。「アメリカの51番目の州になったら楽なのに」と冗談半分ながら、半分は本気で思っている人たちです。この人たちはもう置いていくしかないですね。新しい日本のためには。逆に、左派で「もう中国に従った方が楽でいいんじゃないか」というような考えの人も置いていく必要があります。左右で、ここまで来ちゃっている人はお互いに切り捨てる勇気は要りそうです。
実際には、右派の中でもそこまでは思っておらず、「いや、だってアメリカがおかしいと思っても、9条で軍隊を持っていない日本はアメリカに守ってもらってるんだから、言うこと聞かないわけにいかないじゃん。ここで一緒に行かなかったら、いざというとき守ってもらえないじゃん……」というくらいの方々が大半でしょう。「だから言ってんですよ、9条変えろって。でも左派が反対するからこうなってるんでしょうが!」 左派からは「9条があるからアメリカを遠ざけられているんでしょ」という声があると思いますが、この方も一緒にやれますので、先へお進み頂きたい。
「アメリカのため」ではなく「世界と自国のため」に
その次に考えなければならないのは、例えば自衛隊が海外派遣される事態となった場合、それが「アメリカの勝手」なのか「国連で認められたことなのか」です。アメリカ一国の勝手に付き合わされるのはごめん。しかし国連のオペレーションとしてやるならどうでしょう。
安保法制の時に最も混乱したのがこの点で、なぜ紛争地で平和維持活動をしたり道路の建設をしたり、選挙の監視をするという自衛隊の活動そのものが「アメリカに鼻づら引き回されて地球の裏側まで行く」という話になって激しい反対を巻き起こしたのかと言えば、それは「主にアメリカと事態に対処するときに必要な集団的自衛権」と、「国連の意志のもとに国際社会の平和を維持・構築するために必要な集団安全保障」という2つの全く別の考えが、一緒くたにされてしまったからです。
「アメリカのため」なのか、「世界のため」なのか。ここが分けられていないのが問題だったのです。
戦後の歩みを肯定し、「戦前に回帰しない」と強く誓い、国際社会との協調を重視する左派であれば、本来は「国連の活動には積極的に関与する」ことに賛成するはずです。それが武力を行使するものであったとしても、行使することによって平和を作り出そう、現在の国際社会の基盤を守ろうとしているわけですから。当然、その基盤が守られることは、日本自身の平和にも直結します。
しかし左派は日本、もっと言えば日本の軍隊を信じられないので、「日本が動くとろくなことにならない」という思い込みを払拭できずに来ました。しかし、過去の日本は「国際協調よりも自国の利益と理念」に固執して、国際社会から孤立し、戦争の道へ入っていった。ならばその二の舞は避けるべきではないでしょうか。
なにより、憲法前文にはこうあります。
《われらは平和を維持し、専制と隷従圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ》
《われらはいづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものでありこの法則に従ふことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。》
この理念を重んじるのであれば、《平和を維持し、専制と隷従圧迫と偏狭を地上から永遠に除去》するために日本が国際社会に貢献することは憲法の理念そのものと言いえます。
もちろん、国連の判断とて常に正しいとは限りません。そこには常に、日本自身の判断が必要になります。しかも、アメリカに引きずられない形で。その判断は間違えることもあるかもしれない。しかし、「アメリカの横暴に付き合わされた」というだけの立場ではなく、主体的に判断し、仮に間違えることがあれば反省して次につなげる以外にない。右も左も、「アメリカの判断についていくよりしょうがない」と思っているのは、あるいみ「ずるい」立場と言えるでしょう。自分で責任を引き受けられる状態じゃないのですから。アメリカとの関係も込みで「ぎりぎりの判断をした」と言える自信と、判断できる状況を作り出さなければなりません。
目線を上にあげてみよう
そのためにも、日本は「国際社会でどういう立場を目指すのか」を国民共通の理念として確立する必要があります。それはもちろん、憲法前文でも構わない。右派からは「あんなわび証文みたいな憲法は全文書き換えろ」という声も上がってはいますが、9条でさえ加憲までハードルを下げ、それすら「左派の反対が強くてできるかどうか」と言っているくらいのものですから、全文書き換えなんて夢のまた夢なのでいわせておけばいいと思う。当面できませんから。ちなみに私も本来は「自主憲法制定派」ですが、9条加憲には賛成しかねる(むしろ状況はより悪くなると思うので)。が、ここまでハードル下げたんだってことは左派に言いたいと思っています…が今はとりあえず置きましょう。
日本は国際社会でどういう立場を目指すのか。弱ってきているとはいっても他国に比べれば経済大国ではある。国際社会から助けてもらう側ではなく、助けが必要なところに手を差し伸べる側です。自由主義陣営の一員として。問題が起きれば駆けつけて対処しなければならない立場です。国際社会における第二次世界大戦後の体制を維持し、必要があれば改善していかなければならない立場です。これは右派は「連合軍=UN=国連だろ、敵国条項どうにかしろ」という反発もありますが、少なくとも左派は「現在の体制を守ること」にさほどの疑問はないはず。このことを国民が大前提として共有できると、多くのことが変わってきます。
右派はこれまで、戦後的な歴史観を変えなければ日本人は自尊心を取り戻せないと考えてきて、左派と衝突してきたのですが、果たして自尊心を回復する方法は「戦前の歴史を(一部)肯定することだけ」なのかどうか。そうではない、「これからの日本が国際社会で貢献しているという実感を持つことによっても回復するのではないか」というのがこの提案です。
沖縄は「国際社会の平和を維持する要の地」へ
例えば最も懸案となっている沖縄の米軍基地。右派は「日本を守ってもらっている。米軍の軍事力にただ乗りしているんだからいいだろ」というし、左派は「占領が続いている犠牲の地であり、アメリカの世界戦略を担わされている」という。ちなみに私は右派ですが、「米軍基地が日本にあるなんておかしい」「今すぐできなくても、ゆくゆくは自衛隊の駐屯地に置き換えるべき」だと思っている立場です。
しかし日本が国際的な視点を持てばどうなのか。
沖縄は、アジア太平洋地域の安定化、ひいては国際社会の平和に最前線で貢献している地になる。沖縄の人たちにとっても、「対米従属のために本土から差し出された犠牲としての自分たち」「アメリカの世界戦略のために犠牲になっている地」ではなく、「日本を含む、東アジアはもちろん、東南アジア、オーストラリア、インド洋に至るまで広い範囲の安定を保つことに、自分たちの住んでいる地が貢献している」ととらえられる。「犠牲として差し出され、厄介な基地を押し付けられている」と思うか「国際社会の平和に貢献している」と思うかでは、仮に状況が同じでも心の持ちようが全く違ってきますし、本土の沖縄に対する認識も変わってくる。
もちろんそれでも「国際社会の平和なんか知るか、俺たちにとって邪魔なんだ」という人もいるでしょう。もちろん生活に及ぼす迷惑施設としての側面は、話し合いで解決する必要はあると思うのですが。
私は右派の一部による「沖縄はカネをもらってるんだから米軍基地くらい黙ってろ」とか「むしろ米軍さんありがとうと言え」などという発言を心の底から軽蔑しています。この点も、「何のために基地があるのか」「それが国際社会にどのようなプラスの効果をもたらしているのか」を右派が理解できれば、日本という国の存在感を高めたい、国際社会に貢献したいという思いを「沖縄こそが実現している」ことになるでしょう。
もちろん、この認識は米軍にも持ってもらう必要があり、仮に米軍所属の人間で、沖縄を蔑んだり、「俺たちが日本を守ってやってるんだから我慢しろよ」とか「地位協定があるからここで犯罪起こしてもたいしたことねーや」と思っているものがいれば、それは厳しく批判しなければなりません。「沖縄という地にいるあなた方米軍は、国際社会の平和に資するためにいるのだから、その崇高な任務を忘れて、我欲に走って犯罪を犯すなど言語道断だ」と。
また、現在は「アメリカがアメリカ自身のための国際戦略において必要だと思えば沖縄からも対外戦争に出かけていく」ことに日本が文句を言えない状況になっていますが、これは地位協定の改正で文句を言える状況にすべきでしょう。そのためには、日本自身が「今回のアメリカの判断は国際社会に資するのか否か」を常に判断する必要がある。そのための情報収集も必要なら、「アメリカの判断を支持しなかったことで被る不利益も、自ら引き受ける」ことが必要になる。
最近、「ベトナム戦争への協力を、9条を理由に断った」という田中角栄の判断が話題ですが、9条を理由に断ったところで、ベトナムの方からすれば「日本から出撃することを日本が許した米軍」が自分たちに襲い掛かったことに違いはないわけです。地位協定を改定し、さらに9条を改正し、これからは9条を言い訳にするのではなく、「国際社会にプラスかどうか」で断るか承知するかを判断しなければなりません。また、それによって「じゃあ尖閣事態ではうちは出ませんよ」とアメリカに言われても「それは仕方ないですね。自分でやります」と言える覚悟と備えが必要になります。当然、税金もかかります。
主体的に「選んだ」と言える状態が必要
そして、仮に日米安保体制も在日米軍基地を継続するにしても、それは占領の継続ではなく、「自分たちが主体的に判断して選んだ結果」でなければなりません。こうなればいずれも「対米従属」という話にはならない。占領の継続としてやむなくそうなっている、という状態から、日本と国際社会の平和のために自主的に選び取った、と思える状況にしていく(実際にどこかで「選んだ」とする儀式的なものが必要になるかもしれません)。
これまでの日本は、占領の継続(地位協定、米軍基地、9条)をどうにかするために、目の前の少しずつから「ここはもう少し公平になりませんかね?」「さすがに日本人もここまで不平等だと文句が出ますんで…」と言ったり、「自衛官がかわいそうなので9条に三項を加えてですね…」という下からの考え方をしてきました。それは戦後すぐであれば仕方がなかったかもしれません。日本自身も日本を信じられなかったし、国際社会の信頼も壊滅的なまでに失っていましたから。
でもこの70年で、「日本はそこそこ信頼できそうだし、今のこの国際社会の体制をひっくり返そうなんて思ってないな」というくらいには信頼を得てきたと思います。あとは、日本自身がそれを信じられるかどうかなのです。
そのためには、下から――つまり目の前の条文がどうこう――ではなく、上から――国家として国際社会に何をすべきなのか――の視点が必要になります。言い方を変えれば「世界観」。憲法の前文で、「名誉ある地位を占めたい」という理念を実現することではないでしょうか。
自由主義陣営の一員としての自覚と誇りを
日本は自由主義陣営の一員として、国際社会の安寧に寄与する、積極的に貢献していくという大きな世界観から、「そのために何が必要なのか」を下ろしていけばいい。その発想からであれば、改憲も地位協定の改定も、あるいはその先まで、右であれ左であれ、「途中までは一緒にやれる」はずなのです。
先の香港デモに対する左右両派の見解はまさにそうでした。今の国際基調が中国のような「不透明だけど強さを帯びた国々が伸びていく」という方向に行くべきだと考えている日本人はほぼいない。「日本が生きるために中国を全否定できない」と考える人はいても、「長いものに巻かれた方がいい、アメリカ的な自由と民主主義ではなく、中国のような権威主義国家が力強く(時には少数意見を弾圧して)進んでいく方がいい」と考えている人は本当に少数派だろうと思う。「アメリカから離れるには中国の力が必要だ」と思っていた人も(沖縄独立派の方を含めて)おられると思いますが、その発想の行く先が香港だと思えば、「それはないわ」と思うはず。反中国であれ、香港市民に寄り添ったものであれ、「人権は抑圧されてはならない」という、自由主義陣営の一員としての自覚が勃興したのではないでしょうか。
アメリカだって時には権威主義的にゴリゴリと勝手に他人の家に土足で入り込んできて、価値観の転換を図るようなやり方をするんです。日本もそれをやられた。が、たまたまうまくいっただけで、中東ではそれをやろうとして失敗した。本来、その時日本は「そういうやり方は通用しないと思うよ」とアメリカに言うべきだったのでしょうが、軍事力を持っていなかった(し、法律的にも観念的にもアメリカ・占領という呪縛に縛られていた)からできなかった。
日本が国際社会で何らかの立場を確立しようと思えば、今は(これからは)できる。アメリカに引きずりまわされることもなく、かといって中国の脅しに屈することもなく、現状変更を許さず、問題があれば駆けつける。自分たちが敗けたことによってできた体制ですが、それを守っていくという日本のアイデンティティ。ドイツはそれをやっています。そのためには自衛隊をきちんとした軍隊にしなければ海外派遣はできない。アメリカとの関係も、地位協定を改定して本当にフェアな関係性にならなければ、文句も言えないわけです。
なんてことを書いている間に、「トランプ大統領が『不公平な日米安保体制』からの離脱を検討している」との報が入ってきました。どんな形であれ、これは日本が対米関係を「構築しなおす」機会になるかもしれません。
左派の「ナショナリズム」も大切に!
日本が国際社会に貢献している、しかもそれはアメリカに付き合わされてのことでなく、日本が主体的に選び取ったものであるという意識を日本人が持つことができれば、自尊心とナショナリズムの矛先が隣国に向かうことはなく、ヘイトを行う必要もなくなる。トランプへの接待も「独立国として対等な立場から、自発的に行っていることだ」と思えれば、単なる「いい関係」であって「トランプの靴までなめる」という風には見えないし、私たちもそうは感じなくなってくる。
今どうしても安倍総理の振る舞いが「靴なめ」に見えてしまうのは(そして、もしかしたら安倍総理自身もそうふるまってしまったのは)、占領の継続という物語が私たちを覆っているからであり、亡霊を成仏できていないからです。
日本は主体的にアメリカとの関係を築き、時には協力し、時には制する。それによって国際貢献を果たしている、と思えること。これが健全な自尊心の回復であり、ナショナリズムではないでしょうか。
ナショナリズムというと右派の専売特許で左派は否定にかかると思いがちですが、「沖縄の米軍基地が許せない」っていうのはナショナリズムですから。あなた方の感じているそれはナショナリズムなんですよ(と左派の人に言いたい)。
そのためには、日本国内の左右がいつまでもディスりあい、「ほーら結局アメリカについていくしかないんだよ」とお互いに責任を取らないというズルい負け犬のような立場から脱しなければなりません。これはプライドさえ捨てれば楽ですからここから抜けたくない人もいるでしょうが、そうしている限り、現状はいつまでも、永久に維持されるか、アメリカから一方的に切られるまでは続きます。これだけは避けなければならない。一方的に切られる前に、日本が主体的に選択肢を選び取れる土台は作っておかないと。
「戦後体制セット」の「正常化」を一緒にやろう
まず大事なのは、左右が「戦後体制」という箱に放り込まれた案件の中で、「どこまでは一緒にやれるのか」を確認することです。恐らく結構なところまでは一緒にやれる。そして地位協定と9条という「戦後体制セット」を「正常化」する。これも左右が一緒になればできる。だって一緒なんですよ、今の国際基調を守りたい、そこに日本は貢献すべきだ、という大命題は。その判断として、アメリカと協力すべき部分は、堂々と一緒にやればいい。
その意味で、『なぜリベラルは敗け続けるのか』の筆者・岡田氏が言っている《それぞれの立場で、本当に守りたいものは何か、ということを考えてほしいですよ。本当に守りたいものが、さほど水と油であるはずがないんだもの。喧嘩する相手を間違えちゃいけないよね。》はぐわんぐわんと私には響いたわけです。
右と左でごちゃごちゃやっている場合ではない。対米意識をこじらせてお互いに石を投げあっている場合ではない。それでいったい誰が得をするのかと言えば、アメリカであり、中国であり、国内で「石を投げることで得をしている人」です。そんなの、シャクではないですか?
左右は「相容れない」のではなくて、両者を分ける起点を変えてみれば、実はそれほど違うことを言っているわけじゃない。今やこれからの「あるべき姿」に関してはさほど大きな違いはないはずが、過去を起点にしてすべてを分けようとするために敵対し、ゴリゴリとお互いを削りあって消耗してきたというのが本当のところかもしれません。これはもちろん自戒を込めまくりですが、過去の起点について肯定するか否定するかは「二の次」にしていいのではないか。
少なくとも未来を見据え、世界に貢献する日本の在り方を共有できれば、おのずと自尊心を取り戻すことができるし、何より右と左が、未来志向の建設的な議論ができる。もちろん歴史に対する評価は論争として残るでしょう。しかし「過去をどう評価するか」に固執して、論敵を絶滅するまで責め立てるような非建設的な論争は、これをもって終わりにしてはどうだろうか。
――これはもちろん仮説であり、ざっくりした提案です。日本の行く末、政治、対米関係、対中関係などなど……を「どうにかしたい」と思っている右や左や真ん中のみなさんが、こういう提案にどう反応してくれるか。単なる右派のひとりが言っているだけですから、穴だらけではあります。が、その穴を皆さんの知恵と希望によって埋められれば化けるかもしれない。「戦後」がいい意味で終わるかもしれない。それによって、提案が実現の方向に向かうか、単なる夢想や仮説で終わるのかが決まります。ぜひ、皆さんで揉んでいただきたい。反応をお待ちしています
(タイトル画像:首相官邸HPより)