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陰謀論とは何か―自分を「正義の側」に置いたらおしまいです

■どこにでも広がる陰謀論の入り口

『週刊プレイボーイ』2020年12月21日号の「ギャルの流行語大賞2020」を読んでいたら、陰謀論への入り口が開いていました。

「安倍さん辞任したけど、数年前にとっくに別人に入れ替わっていたらしいよ。耳が数年前とまったく違うから、誰かが整形して成りすましてたんじゃないかっていう都市伝説」

私自身、陰謀論関係の本が昔から割合、好きで、『ムー』的なものはもちろん、9・11の自作自演説などの政治的陰謀、最近はグローバルIT企業の陰謀を扱って人気の「信じるか信じないかはあなた次第です」な、あのシリーズなども目を通しています。

こういうものを読んでいると流行や論の展開などが見えてきて、「あー、今回はこういう感じか」と思うに至る。この「耳の形が違う」ネタも、皇族方や金正恩などにも応用される、陰謀論界ではお馴染みのフレーズです。まあもしかしたら、プロの諜報員も耳で判別している可能性はあるんですが…。とはいえ、かつてそういうものを扱う「業界」は業界内に収まっていたわけですね。

ところがネットの発達で、「業界」の入り口がすぐ隣に開いていたり、「これっておかしいと思うんだよな…」という批判的思考がそうした「業界」の入り口に直結してしまったりと、なかなか厄介なことになってきました。「業界」の方々もなかなかこれは厳しい商売になってくるんではないでしょうか。ガチな人たちによる「陰謀があったという事実認定」の方がはるかにリアルで切羽詰まっていて、真実味が増していますからね。さらにはそうした陰謀・噂サイトが現金を稼げるツールになってしまったために、「現実と虚実の間」を楽しむという風流さは完全に失われてしまったように思います。

■陰謀論者無敵論

「安倍総理すでに別人説」は「虚構として楽しむ」人がほとんどと思いきや、実はそうでもない。例えば先日いよいよ「愛子様影武者存在説」を宮内庁関係者が全否定した、という記事が出たように、ネットでは皇室関係の陰謀論は一大コンテンツになっています。しかしこうしたネタに対するガチ反論は、かえって「ついに無視できなくなったか」などと陰謀論者を勢いづかせもするわけです。

公式機関や本人が自らそうした論を否定しても収まることはなく、むしろ「焦って反応している」「なぜ躍起になって隠そうとするのか」「嘘なら放っておけばいいのに、反論するということは、もしや…」などと燃料投下になるのが関の山、という現象もみられるのです。そもそもが「非対称戦」なので、まともに打ち消そうと思っても難しいんですね。

つまり、何らかの陰謀論に対しては

▲報じない→「報道したら都合が悪いからだろう!」

▲報じる→「ついに報じられた! 潮目は変わりつつある!」

▲報道が否定的→「慌てて打ち消そうとするなんて、都合が悪いに違いない!」

▲そういう論があるという事実だけを報道→「あえて否定しないということは、否定できる材料がない、ということだ!」

▲陰謀論者側が証拠としているものを具体的に否定→「むしろ、そう簡単に証拠など出せないくらい、完璧に仕組まれた巨大な陰謀なのだ」

というわけで、何しても彼らの論が補強されるというバッドエンドに至ります。

■批判的思考が入り口に

しかしこうした陰謀論にはまるのは、なにも知識が低いからというわけではありません。「むしろ、知的好奇心が高い人が多い」という研究もあるとか。かくいう私も、もしかしたら何らかの陰謀論を信じ込んでいるかもしれません。

というのも、陰謀論の多くは「世間ではAだと信じられているけれど、本当はBなんです」式に展開していくもので、「事実(とされているもの)の裏」を見ようとする気持ちから生まれる。そこに、ほんの少しの「あれ、なんかおかしいな」が加わることによって増幅していく。こういう話って面白いんですよね。さらに「こうであってほしい」という願望が加わると、より強固なものになります。

例えば、先の「安倍総理すでに入れ替わっている説」でいえば、「安倍本人は数年前と今とで別人になっています」という指摘に加え「見てください、2014年の安倍と2020年の安倍の写真を! こんなに耳が変わってしまっています!」と言われたとき、「あっ確かに」と思ったり、もともと「安倍さんになんか違和感あったんだよな」「途中から別人のように政策が変わってしまった」「本当の安倍さんならあんな媚中政策はするはずないと思っていた!」などという思いがあったりすると、とスーッと染み込んでしまうといったケース。

かくいう私も「なんかプーチン大統領、ずいぶん顔変わったな」と思って「プーチン 顔 変わった」でググったところ、暗黒の扉を開いてしまいました。もちろん、「プーチンが別人と入れ替わっていない」証拠はないわけですが、「入れ替わっている」という証拠として出されているものも、何ら確証がないわけです。

さらにここに、①「敗者びいき」②「私は悪と戦う正義の戦士である」という思い込みが加わってくると、論はさらに補強されてしまいます。

例えば先の「愛子様影武者説」でいえば、①「本当の愛子様はどこに押し込められているんでしょうか! 気の毒でなりません!」と言い出したり、②「私は本当の愛子様の人権のために、皇室や日本政府の巨大な悪と徹底的に戦っています!」と言い出すようなことです。

こうなると、もはや反論は「世間の大勢側に加わろうとしているずるい奴」の仕業となるばかりでなく、「隠蔽工作に加担している」「正義に反する行為」とみなされてしまう。となれば、「相手の言い分に耳を貸す」「検討してみる」こと自体が不正義であり悪ということになってしまいますので、もはや出口はありません。しかも、もともと「自分は簡単には一般的な情報に騙されるような甘い人間じゃないぞ」という自負はあり、客観的にも一部からそう見られているので、「そんなの信じるなんて、あんたバカぁ?」的な煽りをすればするだけ、相手は頑なになってしまうのです。

むしろ、「もっと戦わなければ」と、孤高の戦士感を抱かせる手助けをしかねないわけです。

■実際にあった「選挙への不正介入」

「愛子様影武者説」とか「安倍晋三別人説」はあまりにばかばかしい情報ですが、では「金正恩はもう死んでいて、別人が演じている」というのはどうでしょうか。これは「もしかしたらある」かもしれません。実際、そうした情報を拡散している人もいましたが、論拠が「耳の形」だけではどうにもなりません。あるかもしれませんが、客観的に納得できる情報もまた、何もないのが現状です(確かめようがない)。

また、昨今話題の「米大統領選における不正」はどうでしょうか。そもそも2016年の選挙自体、ロシアの不正な選挙介入があったとされています。ただし、これは「投票後」の結果に対する介入ではなく、世論操作やクリントンのメール情報窃取など、「投票前」の段階でした。トランプ陣営の共謀の有無が取りざたされている状況です。

4年経って、高度なサイバー戦でより直接的に「投票後」の結果について、第三国が選挙に介入した可能性はもちろんゼロではありません。また、「トランプが勝った時は熱心に不正を追及していたのに、今回はあっさり結果を受け入れるなんておかしい!」という思いを抱く向きもあるでしょう。そしてこうした風潮が、トランプを「正義」(あるいは巨大な悪に叩かれている悲劇のヒーロー)に押し上げる土壌を用意した面も否定できません。

しかし今回の選挙で「投票用紙を捨てている!」というような動画を、なぜ「本物」と断定できるのかなど、出してくる証拠をこちらが信じられる要素が今のところありません(出てくるごとに否定されている状況)。なので、「調べてほしい!」「訴訟だ!」「勝っている可能性もゼロじゃない!」というのはいいのですが、「今のところ結果は覆っていない」ことは事実なので、それを口にする人を敵認定するのは明らかにいきすぎです。

■脳のバグに要注意

ある視点でひとたびググってみれば、確かにさまざまな階層の情報があります。「陰謀論者たちは自分のことを、調査員や研究員だと思っている」という指摘がありますが、確かに不正を指摘する人は「のほほんと結果を受け入れているだけの何も考えない思考停止野郎」よりも、膨大な知識や情報を持っている。

ただ一方で、「自説と相容れない情報に関しては軽視する」という傾向もあります。これはモノホンの調査員やジャーナリストでも陥りがちな、いわば脳のバグでもあります。誰にでも起こりうることなので、もし自分が、あるいは誰かが何らかの立場を「正義」に置き換えて主張しはじめ、「都合の悪い情報をスルーする」ようになったら、注意した方がいいでしょう。「あなたはそういうけど、これはどうなんですか?」というまっとうな指摘を無視したり逆切れで批判してきたり、挙句「あなたは悪に加担するのか!」などと決めつけるようだと、ちょっと危ない状況に陥りかかっているように思います。キレずに事実を淡々と述べればいいわけですから(というのを利用して、冷静に説く系の陰謀論者もいるが…)。

「AかBか、どちらかしかないんだ!」と言って、自説を受け入れさせようとする脅迫も、気を付けた方がよさそうです。論理的誤謬というやつで、事態が複雑なのだから「どちらかしかない」ことはあり得ないわけで、それはある意味、相手を二択の世界に閉じ込めるものいいでしょう。まあこれも、文章を書いているとついつい使いたくなる定型句ではあります、文章が締まるので。選挙の二択などでは確かにどちらかしかないわけですが、その選択がどういう未来に至るかは無数の選択肢があるわけです。

もちろん、「あんた間違ってるよ!」と指摘するほうも、あんまり自分を正義だと思いすぎると、反証する材料が出てきたときに「見ないふり」する羽目になりますので、気を付けた方がいいでしょう。

■過去の成功体験も目を曇らせる

また、もう一つ気を付けなければいけないのは過去の成功体験でしょう。「別の事象Cでも、はじめはみんなにオオカミ少年と言われていたんだ。でも本当だっただろう」とか、「Cを当時、主流のメディアや学者たちはみんな嘘だといっていたが、やっぱり本当だった!」など。そうしたかつての別の事象に対する「判断力」の有無や正解・不正解は、誰かの説の正確さを高める一助にはなるかもしれませんが、万能ではありません。ノーベル賞受賞者でも別分野ではトンデモだったりします。

なので、例えば「D新聞の逆が正しい!」というのは「往々にしてそう」かもしれないけれど、「すべてがそうとは限らない」というわけです。もちろん、一つ間違えたからと言って、かつての主張も全部間違っていたことにはならない、とも言えますが。

また、「単純な情報を聞いただけで、おかしいとピンときた」「ピンとこない事自体、終わっている」というのも、判断能力の高さを一見示すように思われますが、ピンときたうえで、その疑いや願望に合う情報だけを集める傾向になれば、逆効果となります。でもそうしたくなるのが人間の脳なんですよね。「あー、自分、いま自分の説に都合いい話ばかり拾ってるな」と気付けるかどうかが結構大きいかもしれません。

■ずるい業者の「養分」にならないために

じゃあどうすればいいかというと、以前は「物事を疑って多角的に見ろ」というのが解決策のひとつでしたが、ネット社会になってからは「物事を疑ってみる」批判的思考が、かえって陰謀論に陥るきっかけになっていたりします。深く掘り下げていくとどうとでも情報源は見つかってしまう。しかも今はいかにもニュースサイトみたいなデザインで来ますからね。

一つは、「その論に肩入れする何らかの理由があったうえで情報を検索している」場合に、自分の目は客観性を失って曇っている可能性を考慮すること。そういう葛藤がないと、たぶん本物の研究員とかはやってられないと思います。人間、完全にフラットで何の偏りもなく公正に判断を下せる人はそうはいません。

また、「正義」視点、「被害者を応援したい」視点に立ってしまうと往々にして事実認定が甘くなるので、そこは気を付けたいところ。たとえば法輪功の人々が運営する中国に批判的なメディア大紀元について。中国共産党の弾圧は人権的に許されないため法輪功の側に立つことはある意味「正義」ですが、だからと言って大紀元の報道をすべて鵜呑みにするかどうかは別。性被害を訴える女性の立場でものを考えることも「正義」でしょうが、個別の事例が本当に事件化できるものかどうかはまた別です。

もう一つは、「自分の考える陰謀が事実であってほしい」と思うようになってきたら一度立ち止まろうということ。もうそこに、客観的事実ではなく「願望」の足音が近づいているので、「自分はそう思っていたけど、否定されたなら、それはそれでよかった」と思える余地を残しながら情報分析を続けた方がいいのではないかと思います。まあ難しいですが。

ましてや「その陰謀に最初から気づいていた俺はえらい」と自己のアイデンティティを乗っけてしまうと、後戻りできなくなります。いち早く指摘した人より、確かな証拠を出せた人の方が偉いですし。

何を考えてもいい、ある程度なにを発言してもいい、疑惑を指摘してもいい。しかしその自由の向こう側で、発信者が取るべき責任は常に意識しておくべきでしょう。「そうあるべきだ(願望)」と「そうに違いない(事実認定)」の間の谷を意識しましょう。あなたの「弱者びいき」や「正義を恃む心」が、悪質な情報で金儲けしようとしているサイト運営者の飯のタネにならないことを祈っています。

参考図書はこちらです。どれも相当面白いので、是非年末年始の読書のお供に!


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梶井彩子
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