
文学フリマ京都で買った本①エッセイ
2025年1月の文学フリマ京都で買った本。どれもおもしろく(というと軽く聞こえるな…)読んだ。せっかくなので読んだときの思いを書き残しておこうと思う。
太田友子『父の片思い』
事前にnoteの記事を見つけて、買おうと決めていた本。
認知症のお父さんとの日々を綴ったエッセイ。私の父も認知症っぽい症状が出てきたので、心の準備をしておきたくて買った。
note記事には「大嫌いだった父」と書いてあるので、どんな憎々しげなお父さんが出てくるのだろうと思っていたら、出てきたのは、ちょっとクセはあるけど憎めない感じの人だった。
でもそう感じられるのは太田さんの文章の力かもしれない。
朝食を終えると父はゴミ袋を持ち、リビングをウロウロし始める。目についたものをなんでもかんでもゴミ袋に投げ入れたら、今度は無印良品のスティック型掃除機を持って歩き回る。お次はダイソーの小さなほうきとちりとりを手に、腰を屈めて小さなゴミをせわしなく集め出す。最後にキッチン道具を食器棚の下の引き出しをガラガラっと開けて無秩序に放り込んでお掃除終了。
これなんか、読んでいると微笑ましい感じすらしてしまうけれど、現実にやられたら私はきっとイライラするだろう。
ひとつひとつのエピソードを、もっと毒々しく、ねちっこく書くこともできると思うが、終始ほどよい距離感で淡々と進んでいくので、心地よく読んでいたところ、コマツ君の章(「親友」)にきて涙がぶわっと出てしまった。勿体無いので引用はしない。
たまたま車の運転をしながら聞いていたNHKの文芸選評で、こんな句が選ばれていたのを思い出した。
【#文芸選評】
— らじる (@nhk_radiru) January 4, 2025
選者 #西村和子 さんイチオシ作品
父に来て父に届かぬ年賀状
(神奈川県 三玉一郎さん 59)https://t.co/eme8ZFPGuf

読んでから御座候が食べてみたくなり(人生初)、近所で売っているのを思い出して買いに行った。「白」が好みでした。
シスターフッド書店Kanin編『私たち、氷河期世代』
有無を言わさぬタイトルのインパクト。
私も氷河期世代なので、買わずにはいられない。
22人の書き手による「就職氷河期」エッセイアンソロジー。

本や映画の中には、心をえぐられすぎて、ふたたび手に取るまでに時間がかかるものがあるが、これもそのひとつになりそう。
2003年とそれ以降の、なかなかに苦しかった「自分の氷河期時代」のできごとを次々と思い出して、読む手が何度も止まった。(「この時期に就職決まってないなんて終わってるな」と面と向かってせせら笑ってきた法学部の男のカマキリみたいな顔は一生忘れない。)
私は、「連帯」という言葉は空疎な感じがしてあまり好きではないけれど、「氷河期世代」となら連帯できそうな気がする。それくらい「あのとき辛かった」「それでもがんばってきた」気持ちを分かち合いたかったのだな…ということを、このアンソロジーを読んで自覚した。傷を舐め合ってるだけじゃだめなんだけど、でも少しくらいはそんな時間がほしかったのだ。
ひとつだけ文章を引用させてもらうと、
いや、他人事のように呆然としている場合ではない。私たちが何かをしなければならなかったのだ。私たちの世代が。
「会社」すなわち営利企業と「社会」がイコールになってしまったこの世の中で、就職がかなわず、疎外感を抱え、うまく大人になることができないまま、年齢を重ねてしまった。
ずっとそういう感覚がある。だれかがどうにかしてくれる。大人のだれか、ちゃんとしただれかが。私たちにはそんなことはできない。そういう学習性無力、そういう甘え。
いつまでも甘えていてはだめだ、と思う。HさんやEさんに、下の世代の人たちに。ちゃんとしなきゃ、大人にならなきゃ、だれかじゃなくて私がやらなきゃいけないんだ。でもどうやって?
「何かしなければ、役に立たなければ」という気持ちと、「どうせ自分には無理」という思い。まさにこの無限ループの胸の内を言いあてられたようで、ぐさっときた。