《世界史》絶世の美女ディアーヌ
こんにちは。
Ayaです。
今日からヴァロワ朝について前後編でまとめたいと思います。今日はアンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエについてまとめます。
ヴァロワ朝(1328~1589)
ヴァロワ朝は1328年にカペー朝の断絶を受けて、その支流であるヴァロワ家からフィリップ6世が即位したことにより開始されます。しかしこの相続は百年戦争を招くなど不安定なものでした。
ルイ12世のころ、再び危機が訪れます。ルイ12世には娘しかおらず、サリカ法(男子にしか王位継承権を認めない)でその即位を認められなかったからでした。ルイ12世は縁戚のアングレーム伯フランソワ(後のフランソワ1世)を娘のクロードと結婚させ、後継者とすることとします。
翌1515年ルイ12世が崩御したため、フランソワが即位しました。
フランソワ1世は芸術を擁護したルネサンス王でしたが、戦争には弱く、1525年には神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の捕虜となってしまいます。
フランソワ1世は自身の引き換えに二人の息子をスペインに送ることとなります。二人のうち一人がアンリ(後のアンリ2世)でしたが、この時別れのキスをしたのが、ディアーヌ・ド・ポワチエでした。(クロードはすでに死去)
ディアーヌ・ド・ポワチエ(1499~1566)
ディアーヌ・ド・ポワチエは1499年生まれで、アンリより20歳年上です。15歳のころ、39歳年上の男性と結婚し、2女をもうけます。夫の死後は宮廷に出仕し、王妃クロード付きとなります。その縁で、アンリの家庭教師となります。
※余談※すでに未亡人だったので、ディアーヌは黒の服しか着用しませんでしたが、その服装は宮廷で流行したそうです。
アンリは4年後、フランス宮廷に復帰しました。同時期父フランソワ1世が後妻を迎える記念の馬上試合を行います。このときアンリは、通常だと後妻に敬礼をするべきところを、ディアーヌに敬礼したのでした。二人がいつ男女の仲になったのかは不明ですが、このときすでにディアーヌに愛情をいだいていたことは間違い無いでしょう。
そんななかで、翌年アンリはカトリーヌ・ド・メディシスと結婚するのです。
カトリーヌ・ド・メディシス(1519〜1589)
カトリーヌはメディチ家の直系に生まれますが、幼くして両親と死別します。メディチ家出身であるクレメンス7世の仲介で、アンリと結婚することとなります。
しかし、フランス王家では、商人の先祖を持つカトリーヌは軽んじられた存在でした。
クレメンス7世が崩御すると、まだ子供のなかったカトリーヌを離縁すべきとの声があがります。そんななかでディアーヌだけはアンリにカトリーヌとの間に子供をもうけるように促します。カトリーヌは愛人に夫との仲を取り持ってもらうという屈辱的な立場になりますが、1544年にはフランソワ(後のフランソワ2世)を出産。その後、9人の子供に恵まれます。その子供たちの養育はディアーヌの娘が担当することとなります。
1547年にはフランソワ1世が崩御し、アンリが即位します。アンリはディアーヌを政治にも参加させ、署名には二人のイニシャルDとHを使うありさまでした。またカトリーヌが欲しがっていたシュノンソー城(本稿トップ画)まで与えるのでした。
すでにディアーヌは50歳代となっていましたが、その美貌は健在で、20歳ぐらいにしか見えなかったと言われています。美貌と権力を持った彼女は無敵でした。カトリーヌは王妃という立場にありながら、敵わなかったのです。(それだけでなく、息子の嫁メアリー・スチュアートにも軽んじられました)
しかし、その栄華も12年で途絶えてしまいます。
1559年アンリ2世は馬上槍試合にて、折れた槍先が目を貫通する大怪我を負います。(ノストラダムスの大予言の的中例で有名ですね)病床のアンリはディアーヌを呼びましたが、カトリーヌによって阻止されます。そのままアンリ2世は苦悶の中崩御します。
ディアーヌは後ろ盾を失いました。カトリーヌの日頃の遺恨からすれば殺されても仕方がないと思われていましたが、シュノンソー城を取り上げられるだけですみました。ディアーヌは宮廷から去ります。(その後67歳で死去)
アンリ2世の死後、フランソワ2世が即位します。新王妃メアリー・スチュアートの縁戚ギーズ家が権力を握りますが、フランソワ2世は在住わずか1年で崩御します。
フランソワの弟シャルル9世が即位、ついにカトリーヌ・ド・メディシスが国母として権力を握ることとなるのです。
今回はこの辺で終わりです。ディアーヌ・ド・ポワティエとカトリーヌ・ド・メディシスですが、なんとその子孫が結婚しているんです!(その子孫にはマリー・アントワネットの女官ランバル公妃などがいます)
自分と敵ディアーヌの子孫がいるなんて、カトリーヌはどう思ったでしょうか‥。