《世界史》ハリウッドのスターたち
こんにちは。
第二次世界大戦後映画の中心地となったハリウッド。今日はここで活躍したスター女優3人を取り上げます。
"セックス・シンボル"マリリン・モンロー(1926〜1962)
マリリン・モンローは1926年ロサンゼルスで生まれました。生後すぐ両親が離婚、母親に引き取られましたが、その母親が統合失調病に悩むなど不遇の幼少期を過ごしました。母親が精神病院に入院して養育先も転々とされ、その間に性的虐待も受けていたとされています。経済的理由で16歳の時最初の結婚を余儀なくされ、高校を中退、航空部品工場で働きます。このときカメラマンにスカウトされ、写真モデルをつとめます。この写真は掲載されませんでしたが、モンローは芸能界への夢に目覚め、工場を退職、モデル事務所と契約します。事務所は男性好みのモデルとして彼女を採用し、モンロー自身も栗色のくせ毛を金髪のストレートにするなどキャラクター作りに熱心でした。男性誌モデルとして人気を博し、自信をつけたモンローは俳優事務所と契約。芸能活動に反対していた最初の夫と離婚しました。
当初は内気な性格でなかなか仕事を得れなかったモンローでしたが、映画会社FOXの重役と愛人関係を結び、仕事を得ていきます。仕事にはヌード写真の撮影もありましたが、モンローは抵抗なくうけました。1950年公開の『イヴの総て』で注目をあつめ、セクシーな当たり役を掴んでいきます。1952年にはニューヨーク・ヤンキースの人気選手だったディマジオと結婚し、大々的に報道されました。
大衆的な人気も高まっていきます。何を着て寝るのかという質問に「シャネルのNo.5よ」と答えた有名なインタビューはこのころです。
1953年には3本の映画をヒットさせます。『ナイアガラ』では夫殺害を企む悪女として好演し、彼女の代名詞《モンロー・ウォーク》を披露しました。『紳士は金髪がお好き』や『百万長者と結婚する方法』でセクシーなキャラクターを確立していきます。このキャラクターで人気を博していたモンローでしたが、実際は演技力を身につけたいと日々努力を惜しまない女優でした。
しかし、FOXはいままでのような役しか契約せず、その上ギャラも安いことから、FOXへの不満を募らせていきます。
1954年『7年目の浮気』に出演し、スカートが舞い上がるシーンを撮影しました。このシーンは撮影現場が公開されましたが、あまりにも過激すぎると物議が起こったため、本編では足元のみになりました。
長年不満を持っていたFOXと契約解除したり、DVでディマジオと離婚したため、気難しい女優とうわさされるようになります。
1956年映画『バス・ストップ』に出演します。それまでのイメージを覆し、純朴な田舎娘を演じました。この映画ではプロデューサーとしても活動しており、彼女を嫌々使った監督は女性版チャップリンになるだろうと評価しました。同年劇作家のアーサー・ミュラーと結婚、二人の結婚は『世界一の美と頭脳の結婚』と謳われましたが、やはり長く続きませんでした。若い頃からの薬物中毒が悪化していたのです。ミュラーと別れた後は男性関係も奔放になり、ケネディ兄弟とも関係を持っていました。特に弟のロバートは彼女に惚れ込み、妻と離婚すると言っていましたが、モンローは本気にしてませんでした。日頃の不摂生な生活もあり、晩年は体調を崩していましたが、最期まで撮影には意欲的でした。1963年寝室で亡くなっているのが発見されます。享年36歳。睡眠薬を大量に摂取した事故死とされましたが、自殺や他殺の可能性もある不自然な死でした。
女優からモナコ公妃へ グレース・ケリー(1929〜1982)
グレース・ケリーは1929年フィラデルフィアに生まれます。ケリーの父は有名なボート選手で子供たちにもスポーツをさせていましたが、ケリーはスポーツが苦手で大人しい性格でした。そのため父親からの愛情を受けられず、屈折した幼少期を過ごします。
成長すると女優を目指してニューヨークに移ります。元々ミュージカル志望でしたが、舞台中に見出され、ハリウッドデビュー。この作品をみたスタンリー・クレーマーが『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢します。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りで、『ダイヤルMを回せ』などで主演をつとめました。ヒッチコックは彼女を「雪に覆われた活火山」と評しました。1955年には『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得しています。
マリリン・モンローと正反対の清純派で売り出していたケリーでしたが、恋多き女性として有名でした。ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブルなど名だたる俳優と浮名を流しましたが、年上の男性が多く、父親へのあてつけとファザー・コンプレックスが垣間見れます。
カンヌ国際映画祭で知り合っていたモナコ大公レーニエ3世との婚約を発表し、マスコミに大々的に取り上げられます。『上流社会』を最後の作品とし、1956年結婚。ハリウッドの一女優から公妃になったことで、現代のシンデレラと謳われました。
結婚後は公妃としての公務に専念、モナコ公国の知名度アップに貢献しました。レーニエ大公との間に3人の子どもを出産し、子育てにも追われました。1982年交通事故により死去。享年52歳。
夫のレーニエ大公は2005年に亡くなり、ふたりの息子アルベールが現在モナコ大公として在位しています。
"永遠の妖精' オードリー・ヘップバーン(1929〜1993)
オードリー・ヘップバーンは1929年ブリュッセルに生まれます。母親はオランダの貴族階級の出身でしたが、父親がナチズムに傾倒した上捨てられるという苦労の絶えない幼少期でした。第二次世界大戦中レジスタンス運動の資金集めに奔走します。当初はバレリーナを目指していましたが、大戦中の栄養失調のため諦め、女優を目指します。イギリスに渡り何本か映画に出演した後、戯曲家コレットに見出され、『ジジ』役をつかみます。コレットの「私のジジを見つけたわ!」という言葉が有名です。
『ジジ』役が決まった後、『ローマの休日』王女役のオーディションを受けます。天真爛漫な笑顔で王女役が決定しました。
当初『ローマの休日』の主演は新聞記者役のグレゴリー・ペックで、ヘップバーンはあくまで共演役でした。しかし撮影が始まると、グレゴリー・ペック自身の求めで同等の扱いに変えられました。グレゴリー・ペックの予想通り『ローマの休日』は大ヒットとなり、ヘップバーンはアカデミー主演女優賞を受賞しました。
『ローマの休日』で成功したヘップバーンは『麗しのサブリナ』『戦争と平和』など話題作に出演します。『戦争と平和』で共演したメルファラーと1954年結婚。結婚後何度か流産を経験したため、1年間仕事を休み、息子ショーンを出産しています。その出産から3ヶ月後、『ティファニーで朝食を』の撮影に入ります。それまでの清純派のイメージとは真逆の役でしたが、演じ切りました。このことはアメリカの女性に対する固定観念が変わったといわれています。
『噂の二人』ではシャーリー・マクレーンとレズビアンと噂される役を演じて、話題になりました。
『シャレード』では巨額の金塊を巡って夫を殺害され、不気味な3人に命を狙われる未亡人役を好演しました。
『マイ・フェア・レディ』では主人公イライザを演じました。当初舞台でイライザを演じたジュリー・アンドリュースが予定されていましたが、彼女がカメラテストを拒否したため、急遽決まりました。ミュージカル作品でしたが、声質が悪い自覚があったオードリーはレッスンを受けていましたが、吹き替えが使われていて、ショックを受けたと言われています。
1967年『暗くなるまで待って』で盲目の女性役を演じました。この役作りのため視覚障害者施設を取材、目隠しをして過ごすなど熱心に過ごし、痩せてしまうほどでした。彼女はのちに今までで一番苦労した役と語っています。
その後は作品に恵まれず、私生活で離婚したこともあり、映画界から静かに去ります。
どんな役でも引き受けたヘップバーンでしたが、唯一断った役がありました。アンネ・フランクの役です。『アンネの日記』の制作が決まるとすぐ候補に上がったヘップバーンでしたが、アンネの父から説得されても「アンネの一生と死を自分の利益にできない」と頑なに断りました。このエピソードからも彼女にとって第二次世界大戦が大きな影響を与えていたことがわかります。(のちにユニセフの活動で『アンネの日記』の朗読劇をしています)
映画界引退後は平和活動に従事し、1988年にはユニセフ親善大使に就任します。体調を崩す直前まで精力的に活動していましたが、1993年亡くなりました。享年63歳。
『ハリウッドのスターたち』、取り上げました〜。みなさんは3人の女優たちで誰が好きですか?私のなりたい顔はグレース・ケリーですが、やっぱり作品はオードリー・ヘップバーンです!今年5月にヘップバーンの生涯を描いた映画が公開されていましたが、みそびれました。なぜか映画はみそびれること多数です。美術館は速攻で行くのに‥。
次回は《無駄話》を更新する予定です!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?