《美術史》アール・ヌーヴォーとウィーン分離派
こんにちは。
Ayaです。
今日はアール・ヌーヴォーの先駆けとなったミュシャとウィーン分離派のクリムト、シーレについてまとめます。
アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)
アルフォンス・ミュシャは1860年オーストリア領チェコに生まれます。当初は音楽家を目指しますが声質が悪かったため、画家を目指すようになります。
成長すると、ウィーン、パリに移り、印刷所で働きながら画塾に通います。
1895年の年末、女優サラ・ベルナールのポスターを引き受けます。年末で他の画家が出払っていて引き受けることになりましたが、この出会いが彼の運命を変えます。彼が作成した『ジズモンダ』のポスターを気に入ったサラ・ベルナールが、今後のポスターも彼に依頼するようになるのです。『椿姫』『メディア』『トスカ』などのポスターを作成します。
サラ・ベルナールのポスターが評判になり、他の企業からもポスターの依頼が舞い込み、人気イラストレーターとなります。
装飾用パネルにも取り組み、アール・ヌーヴォーの担い手となります。
アール・ヌーヴォー
アール・ヌーヴォーとは『新しい芸術』という意味で、19世紀末から20世紀初頭の美術運動です。植物をモチーフにした曲線美が特徴です。もともとウィリアム・モリスのアーツ・クラフト運動から始まり、工芸やポスター、建築物まで広がりました。
有名なのが、エミール・ガレのガラス工芸や、ルネ・ラリックの宝飾品でしょう。
しかし、第一次世界大戦後はより機能美を求めたアール・デコが登場すると、衰退していきます。とはいえ、クリムトらウィーン分離派や日本の志賀直哉ら白樺派に影響を与えました。
ミュシャは1910年チェコに帰国し、大作『スラヴ叙事詩』の制作に取り掛かります。『スラヴ叙事詩』はスラヴ民族の神話や歴史に基づいた壮大な作品で、全20作で構成されています。スメタナの『わが祖国』を聞いたことや当時ロシア帝国が掲げていた汎スラブ主義などに影響されたのでしょう。
1918年にチェコスロヴァキアが成立すると、紙幣や切手のデザインを担当します。このとき、無報酬で引き受けたとされています。しかし、民族の長年の夢はわずか11年の短さでした。
1939年ナチス・ドイツによって侵攻され、ミュシャも秘密警察ゲシュタポに逮捕されてしまいます。なんとか解放されたものの、体調を崩してそのまま死去。享年78歳。
第二次世界大戦後も民族意識を刺激するとしてミュシャは認められず、プラハの春やアール・ヌーヴォーへの再評価を待つこととなります。
グスタフ・クリムト(1862〜1918)
グスタフ・クリムトは1862年ウィーン郊外で生まれます。地元の工芸学校を出ると、ハンス・マカルトの影響を受け、彼の死後は後継者と見做されます。
次第に官能的な画題をとりあげるようになり、『接吻』や『ダナエ』を制作、自宅に多くの愛人兼モデルを囲うなど品行も悪く、アカデミーから評価されなくなります。
1897年に保守的なアカデミーに反旗を翻し、他の芸術家とともにウィーン分離派を結成。分離派会館に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を制作しますが、あまり評価されませんでした。
ウィーン工房の設立にも関わりますが、1918年世界的に猛威を奮っていたスペイン風邪で亡くなります。享年55歳。
エゴン・シーレ(1890〜1918)
エゴン・シーレは1890年ウィーン郊外に生まれます。ウィーン芸術アカデミーに進学するものの、すぐ退学し独自の芸術を目指すようになります。先輩のクリムトと出会い、ある女性を紹介されます。この女性はヴァリといい、モデル兼恋人となります。
シーレはクリムトよりも過激な表現を用いたため、アカデミーには理解されず、警察からは猥褻物と認定されていました。そんなシーレをヴァリは支え続けます。
一方シーレは良家の娘エーディトと出会い、彼女と結婚することで社会的信用を得ようとします。モデルは娼婦よりも劣る職業とされたため、ヴァリとの結婚は考えられなかったのです。とはいえ、シーレはヴァリと別れる気はさらさらなく、愛人としての交際を望んでいました。ところが、ヴァリはこの交際を断り、シーレの前から去ります。ヴァリは従軍看護婦に志願し、猩紅熱で亡くなります。
身勝手な幻想を打ち砕かれたシーレは『死と乙女』を描きます。『死と乙女』は基本的に死神が乙女(生命の象徴)を凌辱するイメージで描かれますが、シーレの場合、乙女のヴァリが死神のシーレにしがみついているように描かれています。これは彼の願望でしょう。
ミューズのヴァリを失ったシーレでしたが、幸せな家庭を築くはずでした。しかし、スペイン風邪に襲われ、妻エーディトもおなかの子ども、シーレ本人も亡くなります。ヴァリの死から一年も経っていませんでした。享年28歳。
ミュシャとクリムト、シーレをまとめました。ミュシャとクリムトは今でも人気な画家ですね。華麗な様式美で女性人気も高いです。
シーレは身勝手な男という感じです。モデルのヴァリも正妻のエーディトも振り回された感が半端無いですよね。まだ正式に結婚してないクリムトのほうがマシかも‥??(クリムトも大概やけどな)
シーレもクリムトも、スペイン風邪で亡くなっています。今の新型コロナもですが、流行病はおそろしいですね。
ところで、シーレがウィーンアカデミーの入試を突破した年、ある青年は不合格でした。その青年は翌年も不合格になり、画家への夢を諦めます。
この青年ーアドルフ・ヒトラーが画家になっていたら、世界はどうなっていたでしょうか。