《世界史》アメリカ独立戦争とワシントン大統領
こんにちは。
今回から全7回でアメリカの歴史を振り返ります。初回の今日はアメリカ独立戦争と初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンについてです。
コロンブスによる新大陸の発見が有名ですが、彼が発見したのは西インド諸島であり、アメリカ大陸を発見したのはイギリス人のジョン・ガヴォットという人物です。
1498年の発見からヨーロッパ各国から人々は移住してきていましたが、特に増えたのは宗教革命以降でした。弾圧から逃れてきたピューリタンらが逃れてきたからです。
移民者たちの数が増加するにつれ横暴になり、先住民族のネイティブ・アメリカンたちを迫害するようになります。当初はプランテーションの奴隷として彼らを酷使していましたが、同じ頃にアフリカ大陸から黒人奴隷たちが送られてくると、次第にネイティブ・アメリカンたちは奴隷化されなくなり、迫害されます。実際に移民者たちによって殺害された者もいましたが、移民者が対立するネイティブ・アメリカンの部族同士に銃を売り、互いに殺し合いをさせるというケースもありました。ネイティブ・アメリカンたちが追い出された土地に移民者たちが住み着き、太平洋を目指して開拓していったのです。そんななか、イギリスとの対立も悪化していきます。
アメリカ独立戦争(1775〜1783)
アメリカ大陸の広大な土地を植民地としていたのは、イギリス(主にアメリカ)とフランス(主にカナダ)でした。この大国は度々戦争を起こしており、そのたびに植民地同士でも小競り合いが起きるようになっていきます。移民当初は故郷への愛もあった移民たちですが時代が進むにつれてアメリカ大陸育ちの人間が増えていき、本国への不満を持つようになります。
一方で、イギリス本国としてもアメリカ大陸の植民地を維持する為にかかる予算が増えていき、負担となっていきます。そのため課税を強めていきますが、移民たちからの反発を食らうという悪循環でした。
この不満は東インド会社の紅茶が安く輸入されたことにより爆発し、暴徒がボストン港に停泊していた東インド会社船から茶を投げ捨てます。有名なボストン茶会事件です。
イギリス側は当然ながら事件に怒り、さらに懲罰的な立法をします。イギリス側でもピットが和解工作をしましたが、結局ジョージ3世の支持を受けた内閣が戦争に突き進むこととなります。
イギリス側の宣戦布告を受けたアメリカ側でしたが、軍隊もなく各地の民兵組織ぐらいしかありませんでした。このままでは組織だった軍事行動が行えないため、議会で総司令官を指名します。その総司令官がジョージ・ワシントンでした。
ジョージ・ワシントン(1732〜1799)
ジョージ・ワシントンは1732年バージニアで生まれました。父親はプランテーション経営をしていましたが、ワシントンが幼い時に亡くなった為、14歳年上の兄に育てられます。測量を学び、農場経営に乗り出します。兄の死後、兄が携わっていた民兵の訓練を受け継ぐこととなりました。フレンチ・インディアン戦争に従軍し、武功をあげます。
フレンチ・インディアン戦争後、裕福な未亡人マーサ・カスティスと結婚、広大な農場主となります。
社会的地位も上昇し、植民地議会の中心的な存在となっていました。フレンチ・インディアン戦争のときの武功もあり、司令官に選ばれたのです。
当初は苦戦していたアメリカ側でしたが、フランスの支援を受けるようになり、善戦しだします(自由の女神があるのはこの100年記念による)。
1776年13の植民地が独立を宣言した『アメリカ独立宣言』が採択されます。1789年はじめての大統領選挙が行われ、ワシントンが初代大統領に選出されました。彼は政治活動に尽力し2期務め上げて、1796年退任。やっと悠々自適な生活を送りますが、フランスとの対立が強まると、再び司令官に指名されます。しかしあくまで名目上の任命で、実際に従軍することはありませんでした。1799年風邪をこじらせて亡くなりました。享年67歳。
しかし、ワシントンをはじめ政権を把握していたのは裕福な農場主でした。彼らは黒人奴隷たちを使っていましたし、ネイティブ・アメリカンたちを迫害していたのです。自由を謳うアメリカにとっての矛盾が広がっていき、南北戦争が勃発するのです。
休み休みながらゆるーくアメリカ史をまとめようとしたら、普通に7回になりそうです‥。まぁ今までより内容は薄いでしょうが、お付き合いください。