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《世界史》女帝エカチェリーナ

こんにちは。
Ayaです。
今日は女帝エカチェリーナについてまとめます。
父ピョートル大帝が後継者を指名しておらず苦労したエリザヴェータ女帝。自分の苦労を繰り返さないように、亡き姉の息子ピョートル3世を後継者に指名します。

エリザヴェータ1世
フランスのポンパドゥール夫人、オーストリアのマリア・テレジアの同盟に加わる。

エカチェリーナ2世(1729〜1796)

しかし、このピョートル3世はロシア嫌いを公言して、いつまでもロシアに馴染もうとしませんでした。エリザヴェータは失望しましたが、彼の結婚相手を探し出します。
実はエリザヴェータは姉と同じようにドイツに嫁ぐ予定でした。しかし、婚約者が病死してしまい、叶いませんでした。この婚約者の妹に娘がいると知り、白羽の矢を立てます。この娘ゾフィーの運命を変える決定でした。
ゾフィーは1729年ドイツの小国で生まれ、美貌には恵まれませんでしたが、才気あふれる女性に成長しました。14歳で、ロシアに嫁ぎます。
ロシア正教に改宗し、エカチェリーナに改名。ロシア語やロシアの歴史を熱心に学び、エリザヴェータや貴族らからも見直されます。
しかし、夫ピョートル3世からは嫌われていました。いつまでも夫婦生活を持てなかったので、愛人を持ちます。1754年エカチェリーナは男子(パーヴェル1世)を出産しましたが、夫婦仲は改善しませんでした。
そんなとき、エリザヴェータ女帝が崩御します。ピョートル3世はエカチェリーナを廃位し、愛人を皇后に据えようと計画します。危機迫るエカチェリーナは、クーデターを決行します。大貴族たちや軍部はすでに彼女側についていたのです。幽閉先でピョートル3世は崩御。痔によるものといわれていますが、当然暗殺でしょう。こうしてエカチェリーナは名実ともに皇帝となりました。
治世当初は啓蒙政治を目指しましたが、自身の支持母体が大貴族たちだったため、農奴制度は残すこととなります。彼女の治世でロシアの領土は最大化しています。

戴冠式のエカチェリーナ2世

皇女?タカラノーヴァ

簒奪という形で帝位についたエカチェリーナでしたが、そのうち噂を耳にします。亡くなったエリザヴェータのご落胤と称する人物がパリに出没しているというのです。
調べると、20代ぐらいの女がエリザヴェータの隠し子と名乗り、社交界に出入りしていることがわかりました。エリザヴェータには愛人がいたので、可能性がないわけではありませんが、たぶん貴顕の身を名乗る娼婦だったのでしょう。エカチェリーナも分かってはいましたが、放置しておくわけにはいきません。自身がピョートル大帝の血を引いていないどころかドイツ人であることは明確で、この女性を反対派が担ぎ上げるかもしれないのですから。
自身の愛人ポチョムキンに命じて、連れて来させます。さすがにタカラノーヴァもロシアに行けばまずいことはわかっていたでしょうから、拉致してきたのでしょう。そのまま監獄に入れられ、ネヴァ川の氾濫時に溺死したと伝わります。

自称皇女タカラノーヴァ
監獄に入れられ近くのネヴァ川の氾濫時に溺死したと伝わる。

さて、彼女には多くの愛人がいて、対立していた息子からは『王冠を被った娼婦』という罵声が浴びさせられています。30人ぐらいの愛人がいましたが、特に有名な2人を取り上げます。

オルロフ(1734〜1783)

オルロフは大貴族の息子で、皇太子妃時代のエカチェリーナと関係を持ちました。クーデターの際に協力していたのは彼でした。エカチェリーナが即位すると、夫同然ということで栄華を極めます。しかし、度重なるエカチェリーナの浮気に怒り、寵愛に翳りが見え始めます。

オルロフ伯

焦ったオルロフはあるダイヤモンドをエカチェリーナに贈ります。
このダイヤモンドはもともとインドにあったもので、盗まれたものでした。犯人は食い逃げの末殴られて死に、犯人から買い取った宝石商人はアルコール中毒になった上に射殺されてしまいます。
あまりの大きさと曰く付きのダイヤモンドでしたが、エカチェリーナは喜び、王笏にとりつけます。残念ながら、オルロフは寵愛を取り戻すことはできませんでした。きっとエカチェリーナはダイヤモンドだけ欲しかったのでしょう。
その上、オルロフは破産してしまい、『ダイヤの呪い』とうなされて亡くなります。エカチェリーナの愛人たちは半数以上変死してますし(本人は強すぎて呪いが効かなかった?)、さらに後世ではロシア革命が起きたので、『呪いのダイヤ』といわれるようになります。

オルロフのダイヤ
曰く付きのダイヤモンドはオルロフのダイヤと言われるようになる。

ポチョムキン(1739〜1791)

さて、2人目に紹介するのが、ポチョムキンです。ポチョムキンはエカチェリーナの秘密結婚の相手とされ、公私ともに彼女を支え続けました。しかもエカチェリーナは彼の子どもを出産し、現在まで子孫が残っているといわれています。
晩年は男女の仲ではなかったようですが、政治的パートナーで、彼が亡くなると、エカチェリーナは嘆き悲しんだと伝わります。

ポチョムキン

最愛のポチョムキンを失ったエカチェリーナは1796年崩御します。享年67歳。
生前から対立していた息子パーヴェル1世が即位しますが、その治世は長く続きませんでした。

今日はここまでとします。エカチェリーナはとてもパワフルな女性ですね!このnoteで取り上げた女性のなかで一番パワフルかもしれません!
オルロフのダイヤ、いつか本物を見てみたいものです。世界情勢的に触れられない部分もあり、あまり詳しく書けませんでした(汗)早く終わってほしいものです。
次はエカチェリーナ2世の息子から取り上げます!

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