宇都宮借家横丁の昭和史(その2):納豆家族
「なっと、なっとー、ナット」
毎朝六時頃、朝食に間に合うように、納豆屋さんが藁苞に入った水戸納豆を、自転車の前後のカゴに山ほど積んで、自転車を押しながら売りに来る。
私の家の真向かいの○本さん一家は、「納豆家族」と言われ、毎日五本ずつ買うので、納豆屋さんは○本さんの家を素通りしたことはない。
「今日も五本でいいのかい」と、○本さんの奥さんが出てくるのを待っていてあげるほど、お得意さんであった。
○本さんの家族は、男の子ばかり六人居て、両親を入れて総勢八人だった。
お父さんは警察官で、女囚刑務所の看守をしていた。
奥さんは痩せた背の高い人で、ご主人の方はずんぐりと太った人だった。
「女の子が欲しくて、六番目の男の子から五年も経って、試しに産んでみたら、女の子が授かったんだよ」と、とても喜んでいた。
「この子が大きくなったら、家事の手伝いをしてくれるだろう」と、将来を楽しみにしているようだった。
それにしても、赤ちゃんを入れて九人の生活は、容易なことではなかったと思う。
警察官は危険手当は出るだろうが、公務員なので、お給料はそれほど高額ではなかったのだから、奥さんの一日の仕事は、ほとんどお洗濯に明け暮れていた。
六人もの男の子が汚すのだから、毎日山のような洗濯物だった。ズボンのポケットの部分が乾きにくいのか、裏返しに干しているので、遠くから見ると、まるでボロ布が干してあるように見えた。それに、黒だの紺だのばかりなので、何と色気のない眺めだったことか。
女の赤ちゃんも、お兄ちゃんたちのお下がりを着せられていたので、めくら縞や絣の模様で、黒っぽい物ばかりだった。
お洗濯だけで精一杯だったから、お掃除も行き届かず、畳は真っ黒で、障子も穴だらけで、張り替えることもなく、何年も過ごしていた。冬はさぞかし寒いだろうと思われた。
そんな状態だったから、お料理に手間をかけることなどできなかったのだろう。朝・昼・夕のおかずは納豆と沢庵、それに朝は味噌汁、夜はけんちん汁、と決まっていたのだ。それでも奥さんは子どもたちが満足するように色々工夫していた。納豆には卵を二個入れ、刻みネギを入れたりして、お醤油を真っ黒になるほどたっぷりかけて、よくよくかき混ぜるのである。
赤ちゃんは別としても、八人が食べるのであるから、勝手に好きなだけかけるわけにはいかない。大きい子は大きい茶碗に、小さい子はそれなりの茶碗に、先ずご飯を盛り付けて並べ、お母さんが、できるだけ公平に、大きなスプーンで加減しながら、納豆をかけてやるのである。
味噌汁やけんちん汁は具沢山で、おじゃが、お大根、大根の葉、ニンジン、玉ねぎ等、キッチンにある野菜を洗いざらい入れて、最後に煮干しを鷲掴みにしてぶち込むのである。
夕食は、皆がカロリー不足で帰って来るので、けんちん汁なのだが、これも味噌汁同様、イモ類はサツマイモだろうと里芋だろうと、必ず入れるのである。ボリュームが出て満足するし、栄養もあるからなのだという。根菜類、葉菜類もたっぷり入れ、煮干しは必ず入れ、最後に天ぷら油をダバダバと豪快に流し込むのが、この奥さんのレシピの特徴なのだ。
沢山の野菜類を大鍋で炒めるのは、とても大変なので、まず具全部をお醤油で味付けしてから、お水を足して味を整え、最後に油をたっぷり入れる、というやり方を、私は初めて知って「なるほど」と感心したのである。それでも、けんちん汁の味に変わりはないようだ。
さて、このけんちん汁を食べさせる時がまた大変である。油が入っていると熱いから、小さい子たちが火傷をしかねないので、奥さんは次男の真平君に命じて統率するのである。
先ずご飯を人数分だけ盛って並べさせる。次に、子どもたちを着席させる。けんちん汁は熱いので、お母さんが運んで並べる。次に、奥さんは真平君に命じて、弟達に百数えさせるのである。
「真平、百まで数えさせろ」と言う。真平ちゃんは名前の通り真っ平な子だから、お母さんの言うことをよく聞いて、真面目に弟達の面倒をみていた。
ところが、小学生になっている子は「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と早口で唱えて百と言う。
又上の方の子は「二、五、十」「二、五、十」と十回唱えて百と言う。
お母さんは「そんな数え方じゃだめだ。ちゃんと十一、十二、十三と数えろ」と、お勝手の方から怒鳴っている。
「小さい子は数え方がわからないんだってよ」と真平君の声。
「そんなことあるもんか。わからなかったら教えてやれ」と男勝りのお母さんの声。
なるほど大きい子が小さい子に教えれば良いのだ。そうすれば自然に覚えられるのだ。兄弟のいるありがたみだ。私は窓越しに聞こえてくる会話から、○本さんの奥さんの統率力に感じ入っていた。
次男の真平君に比べて、長男の浩君はわがままで威張っていた。弟の面倒なんか知らんぷり。
「真平、兄ちゃんの靴下を持ってこい」「帽子取ってくれ」とか、何でも真平ちゃんに言いつける。真平ちゃんは「はあい」とも「うーん」ともつかない「あー」「おー」といった口調で返事をし、何でも言うことを聞いてやっていた。
ある日、浩君とお母さんの会話が聞こえてきた。
「お母ちゃんよー、俺のこのズボン、小さくなっちゃったから、新しくしてくれよな」と言う。お母さんは出来るだけ買いたくないので、
「どれ? あー、まーだ大丈夫だ。胴のボタン、とめられるんだから」と。
すると浩君は言うのだ。「ホレ見ろよ、俺のでっかいチンボコの形が外から見えちゃうんだよ。俺は恥ずかしいんだよ」
お母さんも負けずに言う。「チンボコなんか、男の子なら誰でも持っているもんだろう。恥ずかしいことなんかあるもんか。何だって小さいよりでっかい方が良いに決まってる」と、こんな会話も平気なのだ。
六人もの男の子を持った母親は常に男言葉で対抗する。男勝りになるのは当然の事なのだろう。どこの家でも長男は、初めての男子誕生で大喜びで、ハタを揚げて祝い、可愛がって育てるので、我が侭になる傾向があるようだ。
またある日の会話
「お母ちゃん、今日は海苔がねえーのかよ。弁当のおかず足りねーよ」
「あー、今日は切らしちゃっている。だけどお父ちゃんだって日の丸弁当なんだぞ。白いご飯の真ん中に梅干し一個入っているから日の丸弁当なんで、海苔なんかいらないよ。おかずが足りないなら、味噌汁の中の煮干しでも拾って詰めていけ。煮干しは尾頭付きなんだからな」と言いながら、さっさと赤ちゃんを背負ってお洗濯に取り掛かる。長男の我が侭なんかにかまけていられないのである。
次男以下の子どもたちは、何でも真平君の真似をして、文句も言わず日の丸弁当で、学校に行く者は出掛け、下の方の子は部屋の中で暴れまわったり、喧嘩をしているのだが、お母さんは気にもとめず、食事の後片付けや、お洗濯に追われているのであった。
こうして四、五年経ってみると、納豆と具沢山の味噌汁やけんちん汁、お沢庵の一汁一菜で、子どもたちは見事に大きくなり、長男の浩君等は肩幅も広く、背も高くなった。次男の真平君もお父さんに似て小太りになっていた。納豆パワーを見事に証明したのだ。
その頃から奥さんの顔色の悪さが目立つようになった。
とても疲れているらしく、お洗濯をしては休み、また洗い物をしては横になりの日々であった。洗濯機の無い時代は、本当に大変だったのである。顔色はだんだん鉛色になってきた。
ご近所の主婦たちも心配して、「少し家事を減らして、赤ちゃんと一緒に昼寝でもしなさいよ」と忠告する人も出てきたのである。
寝たり起きたりの生活になったせいか、夏などは肌襦袢にお腰巻姿で洗濯物を干している姿を見かけるようになった。やせ衰えている感じだった。浴衣すらないようだった。
ご主人は警察官だから、ユニフォームできちんとした服装だったが、しわ寄せが奥さんや子どもたちに来るのだろう。衣服類が不足気味であった。
奥さんは益々弱って、もうこれ以上我慢ができない所まできて、やっと街の個人医で診てもらったら、腸結核で毎日下痢をして、栄養が吸収されない病気だとか・・・。
もう病気も末期状態で、完治するのは難しい、と宣告されたのである。大家族を抱えての中心人物である主婦が病気になるのは致命的だ。それでも奥さんは寝ているわけにもいかず、身を削っても家事を続けていた。間もなく入院もせずに、可愛い娘を心配しながら亡くなった。
女の子は二歳ぐらいになっていただろうか。ご主人の実家に預けられた。後の家族をどうしたら良いのか、ご主人は悲しむ暇もなく、後妻さんを探し始めたのである。
長男の浩君はもう大きくなって、一人だけ高等学校に通っていて、次の年に卒業するので、目安がついていた。次男の真平君は新制中学を卒業して、住み込みで建築屋の大工見習弟子になっていたので、二人はもう一人前に成長するものと見做されていたのである。
でもまだ四人の男の子と、預けた女の子がいるところへ、後妻さんに来る人がいるだろうかと、近所の人たちは興味津々であった。
ところが間もなく来たのである。足の悪い人で、跛を引いていたが、結構動ける人で、七、八人の家事はテキパキとこなしていた。若かったからでもあるのだろう。
また、近所のおしゃべり屋が、「警察官は恩給があるから、恩給目当てだろう」等と陰口を言うのである。何が目的だろうと、この後妻さんは○本家にとって救世主だったのだ。今まで散らかり放題だった家の中をきちんと片付け、畳も毎日水拭きして畳らしくなったし、障子も張り替えて、白い光が室内に差し込むようになった。ご飯のおかずも汁物とは別に煮物も付くようになったのだそうだ。
そのうち子どもたちは次々と新制中学を卒業して、酪農家に見習い奉公に出るもの、左官屋さん、塗装屋さんに就職したりで、夫々独立していった。
後妻さんはやさしい人であったから、預けていた女の子も引き取り、五・六歳の頃からお裁縫を教えて、お手玉を作らせたり、花ぞうきんを縫わせたりして、本当の親娘のようにかわいがったので、良くなついていた。
お買い物の時等、足の悪いお母さんのために、女の子が小さいながらも荷物を分けて持ってあげたりしている様子が、ほのぼのとしていた。
○本さん一家にも、やっと春が来たように見えた。
それにしても、前の奥さんの苦労があったことを忘れないでやりたいと思うこの頃である。