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今日、悲しくなったから。

誰かが亡くなると、寂しい。悲しい。

今日、家でせっせと文章書いてるときに、
西田敏行さんの訃報がスマホに届いて、
あぁ…と、項垂れてしまった。

みんなそうだと思うんだけどさ。

すんごく好きで、追っかけしてて、とかじゃなくてもさ。
日常の中に溶け込むくらいに、
テレビや本の中にに当たり前にいる人が、
急に亡くなってしまうと、
死ぬことについて考えざるを得ないよね。

ここ数年、自分の中のプチテーマが
“生と死”で、
生きるってなんだろうってゆう、アンパンマンの歌詞かよ!みたいなことを、真面目に考えたり、
死ぬってなんなんだろうってゆう、ちょっと間違えるとダークサイドに落ちてしまいそうなことを眠る寸前に考えたりするのが日課で。

今日みたいに有名な人が亡くなると、
あぁ…と、考えてしまう。
考えて、眠れないから、ほんの少しだけお酒を飲みながら、これを書き留めている。

こんなふうに“死”のことばかり考えてるなんて、私、病んでるのかも、と不安になったこともあったのだけど、
案外みんな、夜なんていうのは、そういうことを考えるものだということを知った。
少なくとも、私の家族や、友人は、
深く、そういうことを考えて、
それでも元気に暮らしている。


特にここ最近は、自分で自分の命を絶ってしまう有名人がいたり、
戦争が起きて多くの人が亡くなってしまったり、
そういうニュースを見聞きするから、
より一層“死”について考えることが増えたりして、
そういうニュースは、心を痛めるよね。
本当に苦しくなって、あぁ、辛いな思うけど、それは、私もそうだからね。大丈夫。
あなたも、そうだとしたら、きっと、多くの人がそうやって“生と死”について、考えてるから大丈夫なんだ。
これは、きっと“考える”ということが与えられた私たちの、永遠のテーマなのだと思う。


そんなことを思いながら、洗濯物を干していたら、
ぐりとぐらの作者の中川李枝子さんの訃報が、
夕方スマホに届いて、悲しさがより一層増した今日。

死ぬ、ということは、誰しもが必ずいつか経験するのに、どうしてこんなに怖いのか。
そして、残された人は、どうしてこんなに悲しいのかを改めて考えてみたりする。

西田敏行さんのことを、中川李枝子さんのことを、毎日のように考えていたわけでもないのに、
亡くなったと言われたら、どうしようもなく悲しくなるのは、
もっと、その人に触れたかったなと思うからなんだろうな。

もっと、その人の新たな一面を見てみたかったり、
その人の優しさや、ユニークさを感じたかったり、楽しみたかったり。
そんな日々が、まだまだ続いていくと、勝手に思っていたから悲しくなるのだろう。

生きていたら、どんな形でも、その人が発する新たな瞬間に立ち会えるけど、
死んじゃったらさ。新たなる瞬間は生まれないものね。
これまで残してくれたものを、これからも大切にするしかなくてさ。
あぁ、もっと見ていたかったなって。
寂しくなるんだよね。


父と一緒にみた釣りバカ日誌を思い出して、少し切なくなる。
父と一緒に、新しい釣りバカ日誌をみることは、もう叶わない。
釣りバカはもう最後を迎えていたし、すーさんももう亡くなっていたから、
そんなの、もう叶わないとわかっていたはずだけど。
もうハマちゃんがいないんだから、本当に絶対叶わないんだ。
それを突きつけられたようで、急に悲しくなる。

父は釣りバカが大好きだったから、私も子供ながらに大好きだった。
あの時間が、大好きだった。

夫と一緒に暮らし始めてから知った探偵ナイトスクープは、こんなに面白い深夜番組があったのか!と、衝撃だったな。年末のスペシャルを、大掃除しながら2人でみたりしたんだった。



そして、
母が読んでくれたぐりとぐらは、みんなにとってもそうであるように、やっぱり特別で、
大きなカステラに憧れたね。
ぐりっぐらっ、ぐりっぐらっ、と母がリズムよく読み聞かせしてくれるのが大好きだったんだ。


あぁ、私の中に、亡くなった人の面影がたくさんある。
それを“思い出”と呼んで、
思い出すほど悲しいんだけど、
残された私たちは、そんな思い出を抱きしめて生きていくしかないんだね。

私の大切な人との思い出をつくってくれたことに感謝して。
今日はきちんと眠ろう。

こうやって、書いてみてよかったと思う。

こうすることで、明日は今日より、
元気に過ごせる気がするから。

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