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普通に夢を叶えたかったのだ
進路を、間違えたと気がついたのは、短大に入学してからだった。
うちは、経済的にも、家庭的にも、道外の学校に進学する選択肢がなく、資格の取れない趣味のような専門学校にはお金を出せないとはっきり言われていた。
父はその頃には家にほとんどおらず、私と妹を、どうにか気力だけで子育てしていた母は、よく
「普通の学校に行って、普通の会社に就職するのがいい」と言っていた。
私はエンタメ業界に憧れていたのだけど、それはなんとなく、母がいう普通とは違うような気がして、言い出せなかった。
まずは、母が納得するような学校に進学しなくては。
その先の進路については、それから考えよう。四年生大学に編入してもいいんだし。
目標なんてなかった。まずは、短大に入ることが目標で、その先のことは全く何も考えていなかったのではないかと思う。
それで、札幌市内の短大に入学したのだった。
短大というのは、スケジュールに全く余裕がない。
私が通っていた短大は四年生大学と併設されていたので、やれサークルだ、とか。やれ、校内活動だとか、賑やかだったけど、短大生はそれに参加するような雰囲気はあまりなく、それより、二年間で単位を取らなくてはいけなかった。
それに加えて私が在籍していた科は、何か専門的に勉強をするような学校ではなかったから、カリキュラムもフワフワしていて興味を持つのが難しい。
ある日は、美術が学べたり。またある日は福祉が学べたり。心理学が学べたり。マナーが学べたり。
浅く広く学びながら、ここで学べることは何もないことを悟る。
ここにいる誰もが、本当に学びたいことなんて、ないような空気をまとっていた。
学びはほどほどに、
そんなことよりも私たちは、
少しでも就職に有利になるために、
少しでも良い求人を見つけるために、
ここに学費を払ったのだ、と。
割り切ってるようにさえ見えた。
そのくらい就職には大変強い学校だったのだ。
これが、母のいう「普通」の道を歩むためのルートなのか。私にできるだろうか。と、不安がよぎった。
みんなが就職課にせっせと通うのを眺めながら、私が覚えたのは就職のマナーではなく、タバコを吸うことだった。馬鹿だった。馬鹿なまんま気づくと20歳になっていて、選挙権がもらえて、年金手帳がやってきた。いい加減やばいなと思って、仕方なく大人になることを受け入れて、仕方なく就職活動を始めた。
短大2年生の秋だった。遅すぎるスタートに母も私自身も呆れながら、なんとか掴んだ内定は、ギリギリ自分のやりたいと思っていたことに近い、テレビ局のADの仕事だった。
初任給が11万とかだったと思う。そこからあれこれ差っ引かれると残るのが7万くらい。
早朝から深夜まで働くので、ひとり暮らしが必須だった。
できますか?と聞かれ、はい、できます。と答えた20歳の私の心理とは。
普通に就職しなくては。母が望むような就職はできないけれど、絶対に就職だけはしなくては。みんなもそうしているんだし、せめてもの思いで見つけた「メディア」の仕事じゃないか!なんでも、全部、受け入れるんだ。
四月になる前に、研修期間としてアルバイトしにきてください。と言われ、テレビ局でのアルバイト生活が始まった。
私が就職したのは、テレビ局だとばかり思っていたけど、全然違った。番組の制作会社だった。その違いさえわからないほどに焦って決めた就職先だった。
アルバイトの初日に、基本だから、と、同じ会社の先輩が、ケーブルの八の字巻を教えてくれて
「これができないと話になんないから、何回でも巻いて、今すぐ覚えて」
広い社内の一番端っこで、長くて重いケーブルを何度も巻いてはほどき、巻いてはほどきを繰り返して、コツを掴み始めた頃
「いつまでやってんだよ。早く全員の弁当買ってこい」と、叱られた。
20年前はモラハラも、パワハラも存在しない世界だったから、こんなの日常茶飯事で、とにかく、知らないことを知らないと聞けば怒られ、知らないことを知ってると言ってもやっぱり怒られ、何万回も舌打ちをされた。
書けば書くほど、私の人生の中でも暗黒時代で、しんどい以外の言葉が出てこない。ここまで読んでくれた方も、だいぶ気持ちが落ち込んだのではないか。年末なのに、なんかごめん。だけど、思い出したら止まらない!
アリオ札幌がOPENした時なんて、早朝から、夕方のワイド番組の中継が終わるまで、謎に外で立たされ続けた。何かを守っていたのかな。アリオの外に何か大切な宝石でも埋まっていたのだろうか。雪が降るような寒い季節だったぞ!
書けば書くほど、嫌な思い出がフラッシュバックする。
そんな中で、あるアナウンサーがすごく優しかった。
まず、声をかけてくれたし、挨拶をしてくれた。いつもキラキラしていて、本番前まで談笑していたのに、本番になると、キリッと情報をお伝えしたり、アドリブも交えて楽しく放送をしていた。
あぁこっちだったかぁ。と、思った。思ってしまった。
私がなりたかったの、こっちだったのかぁ。と。
「母が描く普通」にならなくちゃと思って、だけど夢も諦めきれなくて、
普通と夢の折衷案みたいな道を選んだんだけど、違ったんだなぁ。
私は「母の描く普通」が嫌だったとか、就職が嫌だったとか、そういうことではなく、ただシンプルに夢をかなえたかったんだな。
夢は、メディアで働くこと、ではなく
夢は、メディアに出演する人になることだったんだ。ということに気がついてしまったし、
それが私にとっての「普通」だったのだ。
それで、正社員になる日の前日。
つまり、3月31日に、「やっぱり就職しません」と言いにいった。
社長には本当のことを話したような気がする。
社長は、その頃まだ道内のタレントというイメージがあったタカアンドトシの話をしてくれて、
「まぁ頑張れよ」と受け入れてくれた。
私は、4月1日、みんながリクルートスーツに身を包んでいる中、晴れてニートになってしまった。
母はガッカリしたのではないだろうか。これからどうすんの?とか言われたんだろうか。全然思い出すことができないけど、ただはっきり覚えていることがあって、
「四年生大学に通っている友人はあと二年も、ダラダラ学生生活を楽しむのだ。私にもあと二年くらい猶予があるんじゃないか」と思ったのだ。
私、小さい頃何になりたかったんだっけ?と思い出すことから始めることにした。
きっと、昔から、夢を叶えたいと思っていたはずなのだ。
作家になりたかったこと、雑誌のインタビュアーになりたかったこと、そして小学校の卒業文集には「ラジオパーソナリティになりたい」と書いたことを思い出した。
それで、人生、初めて、自分の意思で、チャレンジすることに決めたのだった。
で、今日の私がいる。これを書いているのは、2024年の12月25日の早朝で、クリスマスの朝から何をこんなに嫌な思い出をつらつら書いているのかと思う。
嫌な思い出だし、確実に辛かったけど、やっぱりあの日々に無駄はなくて、あの時テレビ局であのアナウンサーに出会っていなければ、今日の自分はいないのだ。
今年も一年、とても楽しく充実した一年だったから、感謝の気持ちを込めて書いてみようと思ったし、書いてみると、暗い記憶も、もうすでに笑い話にできるくらいにはなっていた。
時が流れたことを感じた。
ちなみに、余談だが、私がラジオの世界の道に進んで、何年も経ってから、
私に優しくしてくれたアナウンサーが担当するラジオ番組の、裏番組を担当することになった。
あのアナウンサーは、私の名前を知ってくれただろうか?
あの頃、挨拶をしてくれていた時は、きっと、ADその①だったはずなのだ。
少しでも、ほんの少しでも、脅威に感じてくれることがあったなら嬉しい。
人生は不思議なことばかりが起こるけど、
だけど、結局、全ては自分が選択した先にある。
来年も、自分自身で、選択しながら、切り開いていくのだ!