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松明ではなく蝋燭でのろしを上げたい

今日「将軍」第3話を見た。
夜の戦闘シーン。敵が火をつけた矢を放っている。松明を持った敵が走って攻め込んでくる。
何人もの人が斬られたり、戦って逃げている。あちこちで燃える炎を照明にしながら。(でもドラマなので実際ちゃんと照明焚いていることは素人の私でもわかるけど。)

夜の鬱蒼とした暗がりの中で、大勢の人の生き死にが炎の中で行われ、負けとわかっていても死ぬまで戦う侍もいた。
そんな時代劇のドラマチックな場面が、松明や火の演出でより一層、人の生き死にを浮き立たせているようだった。人を殺すときも炎、敵を逃れるときも炎がそばにある。

そんな長い場面ではなかったけれど、見ているとまるで登場人物らの命の行末が、燃えている炎で比喩されているかのようだった。
消えるか消えないかの命と、不定形で不安定だけれどめらめらと燃え盛る炎の同時性。

そしてドラマでは松明を持った敵の侍が攻めてくるシーンもあった。ただ火を持っているだけなのに、何倍も勇ましく見えた。

時代も立場も何もかもかけ離れた世界の話だが、突然わたしは
「今の私はこの侍たちのように心に松明を持って狼煙を上げているだろうか。」
とふと思った。

「うおー!今から攻めていくぞー!」という気合い。「何が何でも人を倒していくぞ!」という猛々しさは松明の炎がよく似合う。

心に松明を燃やして、のろしを上げることは私の人生にあっただろうか。
浪人して努力した大学受験は周りを倒すという攻めより、点を取るというゲーム攻略に近かった。それは火を起す原始的な心の動かし方ではなく、部屋の電気を片っ端から付けていくような心は必要としない所作だった。
スポーツも観るのもやるのも好きではないから、心を燃やす作業自体をあまりしていないのかもしれない。

もし、今の自分がのろしを上げるとしたら、私は松明ではなくて蝋燭くらいの灯火が良いなと思う。

松明はめらめらと今にもどこかへ燃え移りそうな危ない火だけれど、蝋燭一本くらいだったら皆が安心する火だろうし、
蝋燭はちょっとした風が吹いたら消えるかもしれない儚さが人間的だから。

安心と儚さ。ポッと明るく温かく、優しく燃える火が、私の戦には必要で。

わたしの世界線では戦う事じゃなくて、真夜中に蝋燭を掲げて、「はいみんな、こっち来てみてー!」というような柔らかい場所へ誘導する。それが私ののろしをあげ方で…。

そして皆も蝋燭やら松明やらLEDを持って見せあったり、その光で暗がりを灯し、各々の道に進んでくれたらなぁ…とドラマとは正反対のファンタジーな方向になる。

なんかそこまで思う場面じゃないのに、松明やら火が燃える場面を見たら、えらく私も興奮してしまったらしい。
でも「心の灯火でのろしを上げる」という自分に合った言葉を見つけたな、と嬉しくなった。

「将軍」、すごくハマっている訳じゃないけれど、時代劇を見慣れてないから思う事がこれからも多くなりそう。全然違う方向に話が盛り上がるのも楽しい。

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