忘れちゃいけないこと。
この季節になると、思い出すことがあります。
それは、直接自分の身に降りかかったことではなく、間接的なことなのですが、当時の自分にかなり大きな衝撃を与えたことでした。
きっとこれからのわたしにとっても、忘れられないことであり、忘れちゃけないことだと感じています。
当時のことを、どう思ったり、感じたりしたのか。
あの頃の気持ちを、そのまま完全な状態で思い出せるかといったら、そうではありません。もともと、記憶力は良い方ではないですし、自分が覚えていれば、今後、何かが変わるのかと言えばそうでもないことですし。
他人から見たら、「いつまでそんなこと考えてるの?」と言われてしまうようなことなのかも。それに、どちらかと言えば、明るい気持ちにはなれないことなのです。
そんなあの時の気持ちを、いつまでも持ち続けるというのは、あまり良くないのかもしれません。
でも、あの頃を思うと、自分の居住まいがしゃんとするというか、今、この時を大事にしないと、とか、そんな気持ちにもなるのです。
言葉にしてしまうと、あまりにも陳腐ですが、わたしにとってそういう気持ちにさせられる、当時のことや、それに対して自分が感じたことは、これからも忘れることはできないし、忘れちゃいけないことなんだろうな、と思います。
社会の中では、起きている事実と、それに対するアプローチと結果の方が重要。
それに対する個人の思いや、気持ちは、軽んじられたり、気にも留められないで見過ごされてしまうことが圧倒的に多いように感じます。
でも、それは仕方がないことで、というか、これは半ば諦めにも近いのですが、社会で生きるというのは、そういうことだと思うので。
それが仮に大衆にとって何か意義があったり、良い変革を起こせると思うなら、発信していけばいいし、行動に移していけばいいし、そうしている人はたくさんいます。
でもわたしには、まだそれができない。それをするほどの見識も、経験も、自信も、責任も、勇気も、まだ持つことができないから。
それに、これを一番の“できない理由”にしている気がしますが、発信した時に、批判を受けることを怖れているというのもあります。
ただ、批判を怖れて、自分の正直な気持ちや考えを公にできないとしても、傍観しているだけなのは嫌なのです。うまく理由は言えないけれど、とにかく嫌。それは、当時も今も同じで、大きな事象や流れに対しては特にそう。
仮に、それが自分にとって間接的なものであっても、鳥の目を持って、色々と考え、なんでもいいから何かの形で自分の言葉にしてみる。
そして、誰かと話してみる。できたら、言葉で負かせてくるようなことをせずに話し合えるような、信頼できる誰かと。(じゃないと、わたしの場合、ただの口喧嘩で終わってしまうので。笑)
そんなことも今後、忘れずにやっていかなきゃいけないと感じています。
要らぬ当事者意識なのかもしれないし、独善的態度なのかもしれないけれど、時にはそんなことも大事なんじゃないか。
自分にそんなことを思わせてくるれるこの季節が来るたびに、あの当時の自分の思いや気持ち、考えたことを、これからも大事にしたい、なんてことを先週は思いました。
そして、“できない理由”を並べて自分の中だけで治めずに、今の自分でも起こせるような、客観性のあるアクションは、何かないんだろうか…。なんてこともぼんやりと。
気持ち・想い先行型人間のわたしにとって、“客観性のあるアクション”というのが、かなり難問なのですよね…。