子どもとの対話で「境界線を理解し、思い込みを解きほぐす」
息子たちと対話をしてきて、たくさんの気づきがあった。
私が支配される在り方だったこと
たくさんの痛みから自分を守るための行動が実は自分を小さな枠に閉じ込め、孤独にしていたこと。
そして息子たちと対話をしてくことでここに気づき、癒され、自分を取り戻す体験がたくさん起こっている。
対話の恩恵を一番受けているのは私かもしれない。
対話にはまだまだたくさんの可能性があるように思う。
今回は境界線と思い込みを理解することについて書きたいと思う。
境界線を理解し、支配されることから遠ざかることの大切さ
息子たちと対話しながら感じたのはそれぞれ感じ方、大切にしたい価値観、選択することが違う。
違っていいんだということを実感していった。
違っていいんだと対話の中では何度も感じていくことで、「正しさがある」という考え方がとても支配的だなと思うようになった。
どちらが正しいかを決め、押しつけることは支配。
世の中には本当に支配が溢れているなと感じるようになった。
正しさや良いことは暴力的で、そんなこと話し合ってもわかり合えないし、分断するだけなのになと最近感じるようになった。
そして自分の感じ方や在り方が支配されやすかったんだと気づいた。
誰かの期待や正しさ、良いことに応えなければと感じて、応える。
または応えられないことで罪悪感を感じる。
これは支配と被支配の構造なんだ。
息子たちと対話する中で、息子たちだけでなく私は何を感じ、何を大切にしたいのかに意識的になっていった。
そこで感じる元々ある私の価値観や願い。
それがあるのに、周りに合わせなければと感じ、できないと罪悪感や自己否定になることは誰かにコントロールされていることと同じなんだとわかった。
支配は依存につながり、他責思考になる
支配されている、コントロールされているということは裏に返すと依存しているということ。
自分で責任をとっていないということ。
誰かが良いと言ったから
こうあるべきと言ったから
こんな風に他責思考になりやすい。
でもそれは本当に自分の求めていたことなの?
だれかのせいにしたって、私の人生は私がその結果を負わなければいけない。
誰かにコントロールされたり、誰かのせいにしたくなんてない。
支配や他責や依存では自分の価値観で自由に選択できない
また支配や他責、依存では自分の価値観や願いから選択ができなくなってしまう。
自由から最も遠ざかることなんだ。
自由と責任は共に在るという言葉は認知していたのに、本当には理解できていなかった。
自分の人生なのに、自分の願いや価値観で生きられない。
そのことに今まで気づけず、誰かの期待に応えることに躍起になってきた。この歳まで…。
その残念さや憤りや悲しさをじっくり感じているところ。
そして息子たちと人の期待に応えることではなく、どんな風に人との関係を築きながら、自分を満たす選択をするのかを対話しているところ。
そこでそれぞれの知恵を持ち寄り、違う選択を創造していくことで、自分の願いから生きることができるようになるといいなと思う。
体験から感じた痛みや傷が思い込みとなっている
またそれぞれが体験から感じてきた痛みや傷も在る。
それを二度と経験したくない、避けたいと感じて、自分なりの正し対処やルールを作っていく。
それが正しさになっていることがとても多いんだと、対話や内省から感じてきた。
大人は体験が多い分、たくさんの正しさを作り、自分を守っているんだ。
嫌われないように
失敗しないように
でもその代償はとても大きい。
自分の価値観や願いから選択できない
自分の価値観や願いがわからなくなってしまう
周りからも理解してもらえない
自分の気持ちを抑圧して、周りの期待にばかり目が行く。
そればかりやってきて、上手になってしまっていた。
だから自分の願いを叶える、自分を満たすという発想がそもそも無かった。
でも心の奥にくすぶっているからなんかイライラしたり、苦しい。
一人一人痛みも大切にしたいことも違う
また自分が感じた痛みや傷は自分の感じ方、受け止め方であって、誰もが同じことを感じるわけではない。
それぞれ大切にしたいことが違うから、私が痛みになることが息子たちの痛みになることではないことも多いんだとわかった。
私が痛みを感じたことを押しつけるのは全く意味がないどころか害なんだとやっとわかった。
息子たちと対話をしてきて、私が傷つくと感じることが息子たちは何とも思わないということが何度もあった。
また三兄弟それぞれ気になる事が違う。
それは一人一人が大切にしたいことや願いと関連しているんだと思う。
私が傷ついたり、違和感や憤りをかんじることは私の価値観なんだと気づいた。
だから押しつけることは意味が無いし、不必要な不安や痛みを感じさせてしまう可能性があるんだ。
本当に一人一人違う感じ方、価値観を持ち、違う世界を生きているんだな。
正しさで守っていることが自分を苦しめている
また私が正しさで自分を守っていると思ってきたことが返って自分を苦しめていることにも気づいた。
プレッシャーをかける
怖さから挑戦しない
自分をありのまま表現できない
そのせいで
のびのび体験できない
やってみたら楽しめたのに挑戦しない
自分の大切にしたいことを伝えられない
こんなことが起きていた。
またそれは
体験を楽しむこと
自分にいろんな体験をさせてあげること
自分をわかってもらうチャンス
こういうものを得られないことにつながっていた。
体験から自分を守ろうとしてきたことが自分をどんどん小さな枠に押し込め、どんどんわかってもらえないことを増やし、孤独にさせていたんだ。
理解して、手放していきたい。
そして息子たちも同じかもしれない。それぞれにたくさんの正しさで守ろうとしているかもしれない。
それが悪いことではない。
でもそのせいで自分にプレッシャーをかけたり、自分の望む選択が難しくなったり、人と安心して居られないとしたら、違う選択肢もあるかもしれないと対話の中できづいていけるといいなと思う。
いつも正しさではなくて、その時に自分の感じることを大切に選択する。
自分の安心を守りたい時はそれでいい。
その時々に自分の願いがある。
それに自覚的になることがとても大事だと思う。
息子たちが感じてきた安心するもの、自分を守るものに気づき、自分に合った選択を落ち着いてすることができるといいなと思う。
痛みや傷を理解し、その時感じたことに共感することが癒しになる
自分を守っている正しさや良いこと。
その奥にある痛みや傷、その体験に気づくこと。
自分を大事にしてもらえない。
否定されたり、バカにされた。
上手くできずにがっかりした。
頑張ったのに結果につながらず無力感を感じた。
その体験がどれだけ怖かったか
悲しかったか
憤りや怒りを感じていたのか
わかってあげることはとても癒しになるなと感じている。
癒されると正しさに縛られる気持ちが緩む。
解きほぐされると感じる。
新しい選択を創造する可能性がひろがっていく
対話は自分を自由にするもの
そしてお互いに違っていいと確認しながら対話していくことは境界線、支配被支配、思い込みに気づくチャンス。
自分のパターンを理解し、新しい選択をしたり、違うやり方を創造するチャンスになる。
正しさを教える会話より、対話は親子共に得るものが大きいのではないかと感じる。
そしてそれぞれに在る思いを聞けることもとても豊かだなと感じる。
そして息子たちが対話に付き合ってくれていること、そこから私がたくさんの気づきを得て、自由にのびのび生きられるようになっていることにいつも感謝している。