エジソン先生に一言申したいJK
天才とは、1%のひらめきと99%の努力である
かの有名なエジソン博士が遺した言葉。
ひらめき、つまり元々備わっている発想力という才能。
よく〝才能がある〟とか〝才能がない〟とか言うように結局のところ1%か0%でしかなくて数値など関係ない。
あるかないかの二つに一つ。
たまたまの才能が1%でもあった人はラッキーだし、
その1%がない人はない人なのだ。
だから勉強ができる、とかスポーツができるとかも1%の才能ってのがあった人であって、努力だけで上り詰めたものじゃないと思う。勿論そこには血を吐くような努力背景があるだろうし、努力の否定は1ミリたりともない。
けどやっぱり努力だけじゃどうにもならんことはある。
そもそもその努力する才能があるかないかの話のような気もする、(?)
だから私は〝勉強ができる〟とか〝高学歴〟とかいう分類で人を見たくない。
〝賢い人〟って表現が好きで、それは頭のキレが良くて考え方が素敵で、人間として尊敬できる人。そういう人を私は賢い人という。
「いいよね勉強できて」と、よく言われたけれど私は自分のことをペンを取って問題を解くという行為に関しては救いようのない馬鹿だと思っているし、自分の成績には1ミリたりとも満足してない。もちろん狂ったように勉強していた時期もあったけど結局わたしは東大王にはなれないし、フェルマーの定理はこの先も解けないんだと思う。
100点満点の定期テストを受けるくらいなら全教科で一万字のレポートをそれぞれ提出する方がマシだし自分には向いていると思う。
かと言って私はてんで馬鹿なのかと言われると一概に全てにおいて馬鹿と言われるほど馬鹿でもないと自分では思っている。
初対面の人と話すスキルには長けていると思うし、理系科目は苦手だけれど文系科目は人並みか、少し得意くらいは言っても許されるくらいの成績だ。
つまるところ多分〝フツウ〟と括られる人間なのだ。
普通ってなんなんだ。
誰から見たなにが基準なんだ。
これは永遠の謎だし、このいたって普通な〝普通〟という言葉に苦しめられている人が山のようにいるうちは、この謎の正体を解明するのはもうしばらく私たちの課題なのだと思う。
学歴社会の国だから仕方ないとは思うけれど、だからといって勉強ができるとか勉強に1日の殆どの時間を割く人が偉いとは思わない。
勿論、日本に限ることではないのだが日本という国は一人ひとりがなにが得意か、ではなくテンプレートのように同じテストを受けてハイスコアをとる人がすごいと思われる国だ。
私は春から高校3年生で所謂受験生という人生におけるわりと大きめの選択をせねばならぬ時期が迫っている。
実は中学時代に、在学校より頭のいい有名な高校に行くか第一志望大学の付属校に行くか迷った時期があった。
もちろん有名高校の方が周りからは推された。
だけれど両親は好きにしていいと言ってくれたので名前を書けば入れる付属校に行くことにした。
学歴<私の選択に委ねて名前すら聞いたことのなかった私立高校に通わせてくれる両親には感謝しかない。
私の第一志望の大学は正直いうと有名大学ではない。
就職には強くない。中堅と言って許されるかどうかのレベルくらいの大学だ。
校内では「ま、最悪上がればいっしょ」とか「上がるくらいなら就職でもいいわ」くらいの扱いだ。
第一志望校だというのはなんとなく気が引けて公言していないがそういう言葉を聞くとちょっぴり胸が痛くなって、同時にちょっと腹が立って、それからちょっと不安になる。
世間での扱いはそんなもんなのか。うちの大学は。
そこに行きたくてわざわざ2時間もかけて付属校に通っている私は大丈夫なのか。やっぱりあの高校に行っておけばよかったかな。
とかいろいろ思うことがある。
今の風潮として「この学問を学びたい!」ではなく「この大学に行きたい」が圧倒的に多い。
私は聞かれるまでもなく前者なのだが、就職という局面ではきっと後者で有名な大学に進んだ彼らに負けるんだと思う。
でも絶対私の方が仕事できるし仕事に対する意欲だってあると思う。その道に進みたくて専門的な学問を専攻しているのになんで学部なんてどこでもいいのうのうと卒業してきた奴らに負けねばならぬのかマジでわからんがそれが今の日本の現状だ。
わけわからんよなこの国は。
結局なにが言いたいねんと聞かれると〝偏差値〟とか〝高学歴〟とかで才能がたまたまあった人たちをフォーカスして差別化する考え方が私は嫌だという話だ。
エジソンさんが言う99%の努力だけではどうにもならない国が日本だ。
1%でもテンプレートに有利な何かを持っていて、世間一般的に〝高学歴〟と呼ばれる人はどれだけ馬鹿で仕事ができなくてもお金が貰える。
同じテストを受けてそこでの成績が良かった人が勝ち。
他の何かに長けていても同じテストが解けるお利口さんじゃないと負けなのだ。
もっと人間の本質を見れないものかと思うけれど。
でもきっとエジソンさんが言うこの言葉の本質は「自身に秘めている可能性を信じて努力しろ」的な意味なんだとは思う。
でもやっぱあるかないかって大きいよ?エジソン先生。
昔の人が決めたテンプレートにハマる人。
それにハマりやすい才能を持っている人。
そんな人ばかりがすごい人じゃないと思うねん。
だらだら書いていて薄々気付いてるけれどいつもまとまってない私の文章、今回はいつにも増して酷くごちゃごちゃしているんだろうなと思う。
要はね、仕事とか勉強ができるとかじゃなくて
なにを考えているかで私を見て欲しいし、私も相手のことはそういう見方で相手を見ていたいなって思うんだ。
まぁ努力してない人は別だけどね。
でもその人なりに頑張ってる人が報われない世界はどう考えてもおかしいと思うし、そういう世界にはしたくないな、なんて。
勿論私には国や世間の風潮を変える力なんか微塵もないんだけれど。
いつか世界を変えてしまうくらいの1%のひらめきという名の才能を持った人がひょこっと現れてくれる日を夢に見ている。
それまではせめて、相手を立場や地位に関係なく1人の人間として見れる人間でいようと、十代で抱いたこの違和感を私は忘れないでおこうと思う。
あなたは〝天才〟とは、どういう人だと思いますか。
みんなが言う〝普通〟って、一体なんなんですかね。