ニューヨークで苦学生だった私が現地で日系の教会に行ってみた話② 完
前回のおさらい
私がニューヨークのクイーンズで苦学生をしていた頃、
ふらっと入ったインド料理屋の店主に日系の教会を紹介され
興味深く、早速訪ねてしまった話。
詳しくは以下で。
今回は、実際に教会内で
どんな事が起こったのかを説明していく。
はじめに
言っておくが、
私はagnosticと言われる、
神の存在を、否定も肯定もできない
という考えの
宗教観を持っている。
これから述べる宗教や、信者さん、を
否定や批判をすることはない。
自身が特定の宗教を信じることは
ないかもしれないが
全ての宗教をリスペクトしている。
また、自身の勉強不足で、
間違ったボキャブラリーを使い
信者の方々などに
不快な思いをさせてしまったら申し訳ない。
その場合はコメントをくれたら嬉しい。
反省し、修正させてもらい、
尊敬の意を表したい。
ということで早速始める。
私が最初に、そこの教会に訪ねた時は、
礼拝の日ではなかったため
日を改めて行くことになった。
(いつかの日曜日だったはず)
そしてその日が来た。
朝10時くらいに集合だった。
中へ入ると
パイプ椅子が並べられており、
教壇には「先生」と呼ばれている、
(おそらく)聖職者の女性が立っていた。
挨拶をし私も椅子に座る。
20-30名程入れる広さの、
少し広めの一軒家のリビングには
続々と人が入ってくる。
数年立った今でも残っている印象は
「みんな穏やかな顔をしていて人柄が良さそう」
ここで先生が、皆に私を紹介してくれた。
名前、どの大学で何を勉強しているのか、
なぜここにいるのか。
その後他の人も挨拶をしてくれて
色々な人がいることがわかった。
・仕事の関係でニューヨークに移り住んだ家族
・日系ブラジル人
・結婚でアメリカに来て、子育ても終わってリタイアした方
多種多様な人が、ニューヨーク全域から集まっており興味深かった。
そんなこんなで
礼拝が始まる
まず、先生が話を始める。
残念ながら詳しい内容は覚えていないが、
未熟で23歳の若造には、「合理性にかける」と感じてしまう内容で
正直あまり話は入ってこなかった。。。
(ごめんなさい)
そうこうしているうちに
ぶどうジュースとパンが配られる。
画像はイメージ
聖餐式という
イエスが最後の晩餐でされたように教会の皆でパンとぶどう酒を分け合う
イエス・キリストが十字架にかかられる前日の“最後の晩餐”が由来になっている儀式らしい。
少々解説をすると
信者ではない私は食べなかったが、
食いしん坊な私はとても美味しそうに感じ、
正直試してみたかったけど我慢
このパンは、プロスフォラ(聖パン)と呼ばれ
聖体礼儀の際、生者・死者の「記憶」のために用いられたものらしい。
実際に配られたのは小さくて薄い以下のようなもの。
ジュースについては本来ならばぶどう酒を使うが
未成年やアルコールを受け付けない人のために
ぶどうジュースを使うことが多いよう。
皆が食べ終わると、お祈りが始まった。
みな其々何かを日本語で唱えている。
私は正直なにをすればよいのかわからず、
ひたすら目を閉じた。
お祈りタイムが終わる
と次は、先生が、信者さん一人ひとりをまわり話を聞いている。
最近どうか?お子さんの調子はどうか?
お仕事はどうか?
当時独り身で海外に住んでいた、
貧乏孤独苦学生の自分には魅力的に感じた。
こういったコミュニティで、
家族や生活のことを相談したり、
話を聞いてくれる人がいる。
それは心の拠り所になるのだろう。
現代人に必要なものだと思って感心した。
そうこうしているうちに、
12時半くらいになり皆が会場を出る。
私は先生に誘われ、
他の信者さんと合計3人で
ランチを一緒にすることになった。
近くのパキスタン料理屋で、
スパイスの効いた美味しい料理をテイクアウトし
教会で御馳走になった。
食べながら、其々のニューヨーク生活のことなどを色々話した。
数々の発言で気づいたこと。
それは
「信者さんは先生の言うことを疑わず、全て聞き入れる」
「先生が何かを言う度、
曇りのない素敵な笑顔で全肯定する」
だが
そういうものなんだと受け流す。
会話のやり取りで
とても印象に残っていること
が2つある。
1つは目は
アメリカのビザや永住権について話をしていた時のことだ。
以下はビザについての簡単な解説。
アメリカ生活が長い人は、
上記のどちらかを取得している場合が多い。
どうやら先生は永住権ではなく
アメリカ国籍を取得しているらしい。
そして信者さんは元々永住権を持っていたが、
市民権に切り替えをしたらしい。
信者さんに質問をした
「日本国パスポートという、世界で一番信頼されているものを持ちながらなぜアメリカ国籍を選んだのですか?」
シンプルに疑問に思ったからだ。
それに対して信者さんはこう答える
「先生がそうおっしゃったからよ」
私の頭の中は
??でいっぱいだった。
良いこと悪いことがあったか聞いても、
全て先生がそう言うから の一点張り。
先生に理由をきいても、
それが良いからとしか言われなかった。
2つ目は、
料理について話をしていたときのこと。
その信者さんはとても料理上手らしい。
私も、料理は大好きです!
と伝えるや否や先生がこう言ってくる。
「あなたも見習わなきゃね!」
私のスキルなども知らずに、
年下だからという理由だけで、
年配の信者さんよりもレベルが低いと決めつけてきたのだ。
それに対して信者さんもなにも言わずに、
ニコニコしているだけだ。
そこからは話が入ってこなかった。
そこからまた30分程話をし、
感謝の意を表した後、挨拶をし教会を離れた。
本当に良い経験ができた。
だが
神聖な場所で、神聖なイベントを経験し
美味しい料理も食べたはずなのに
なんだか後味が悪い。
一人でクイーンズの道を歩いている時に
幼少期を思い出した。
「子供は親の言うことをきくもんだ」
「親の言うことは全て正しい」
「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」
それを盲信し、大人の言うことを従う子供。
さっきのやり取りはそれと一緒ではないか?
先生や信者さんを含め良い人達なのは間違いないし、
宗教のこともリスペクトをしている。
見ず知らずの私を招いてくれたこと、
話をきいてくれたこと、
ランチを御馳走してくれたこと、
全てに感謝をしている。
だが
先生に、またいつでも来て下さいと
言われるものの
その後に行くことはなかった。
単純に価値観が異なるからだ。
まとめ
人の言っていることを
ただただ盲信するのは危険である。
何事も受け身であると、
考えなくなる癖がつく。
そうなると決断力も鈍ってしまうだろう。
特定のコミュニティに入る入らない、
宗教を信じる信じないに関わらず
主体性を持ち
自分を信じ、考え、
自分の責任で行動する方が
毎日を自分の力で作り上げられ、
人生により意味を持たせることができるのではないか?
そう思い、
自分の信じる道へ進んだ。
ニューヨークで苦学生だった私が現地で日系の教会に行ってみた話①②
完