上昇する鉄
「青木野枝 霧と鉄と山と」@府中市美術館
青木野枝の彫刻では、重い鉄は軽やかに宙へと昇り、軽い紙は重たく大地に根ざしている。たとえば、本展覧会で展示されていた二つの《霧と鉄と山》は、鉄が円を描いて連なり、塔を作り上げている。それらの円にはときおりガラスがはめ込まれ、装飾的なリズムを作り出している。丸いガラスは空中に舞い上がるシャボン玉を想起させるかもしれない。鉄の彫刻の中にはビスで固定された枝葉のような部分を持つものもあり、塔の主幹の部分から離れてさらに上昇するかのような感覚を与える。
また《untitled》と題された作品はたくさんの細い鉄の枝から成っている。あちこちの枝には卵が載せられ、危ういバランスを保っている。鉄が卵と戯れることで、見る者にその重量を忘れさせる。一方下部を見てみれば、この彫刻はいくつかの細い足で接地しているのみで、宙に浮き上がっているかのようだ。
この二種類の鉄の彫刻のシリーズが、見る者に上方へと向かう感覚を与え、重量を忘れさせるのに対し、新聞紙と麻布でできた彫刻《曇天》は、石膏で塗り固められることで、決して動かせそうもないほどの重量感を獲得している。鉄の彫刻が黒褐色であるのに対し、この紙の彫刻は白である。軽さを感じさせる鉄の黒い枝と、重量を感じさせる紙の白い山。青木野枝の彫刻では、用いられている素材および色彩と、それらが感じさせる重量感が真逆になっている。
歴史を振り返ってみれば、19世紀のヨーロッパは鉄の時代であった。それは万国博覧会の歴史に現れている。いちはやく産業革命を遂げたイギリスでは、1851年のロンドン万博で鉄骨とガラスで作られた水晶宮が披露され、かつてない技術で作られたこの建築物にヨーロッパの人々が驚愕した。
水晶宮は現存していないが、1889年のパリ万国博覧会の目玉として建設されたエッフェル塔は今でもフランスの象徴としてその存在感を誇っている。フランス革命百周年の記念碑ともみなせるこの塔は、興味深いことに、ただ300メートルの高さの建築物というだけで、建設された当初は何の実用的な役割も果たしていなかった。軍事用の無線電波塔として利用されるようになったのは、もっと時代を下った第一次世界大戦前夜のことである。つまりエッフェル塔とは、300メートルもの高さの鉄の建造物が、重力や雨風といった自然の条件を克服し、技術的に可能であることを示すためだけに作られた鉄のオブジェなのである。その唯一の利用法は、人間が塔に登り、地上300メートルの高さを経験することである。フランス文学者の松浦寿輝は、この事実から、エッフェル塔はその本質においてエレベーターである、と指摘している(『エッフェル塔試論』、ちくま書房、1999年)。塔に取り付けられたエレベーターに乗って中空を目指し、それを体験すること—この上昇および宙に存在する感覚こそ、鉄のエッフェル塔が人々にもたらしたものなのである。
世紀末のヨーロッパの人々は、鉄を手なずけ、わが物にすることを望んだ。1900年のパリ万国博覧会では多くの作家が自然をモチーフにした曲線的な工芸品を出品し、新たなアール・ヌーヴォー様式が席巻した。エクトル・ギマールは、この万博に際して建設されたメトロの入り口を、曲線を描く鉄でデザインした。またギマールに多大な影響を与えたベルギーのアール・ヌーヴォーの建築家ヴィクトル・オルタは、階段の手すりや支柱、ランプなどに鋳鉄を利用し、鉄を自由自在な形に曲げてみせた。それらの鉄は植物のつるのように奔放に曲がりくねっている。
これらアール・ヌーヴォーの工芸では、工業素材として用いられる無骨な鉄は、人間が心地よいと感じられる自然界の形態へと姿を変えている。生硬な鉄に柔らかな植物の形態を模倣させることは、人間が鉄を完全に征服したことを示している。ベンヤミンはアール・ヌーヴォーのドイツ版であるユーゲント・シュティールに芸術と技術との対決を見出し、ユーゲントシュティールにおける「技術のモチーフを装飾によって中和しようとする試み」(『パサージュ論第3巻』今村仁司、三島憲一ほか訳、426頁)を指摘している。アール・ヌーヴォーの工芸品は、装飾のために用いられることで、鉄が加工に高度な技術を必要とする、厄介な素材であるという事実を忘れさせる。アール・ヌーヴォーでは、作り手の表現の意志が、素材の抵抗と技術的障壁に対して完全な勝利をおさめている。
青木野枝の彫刻は、エッフェル塔とアール・ヌーヴォーが実現したことを引き継いでいるとは言えないだろうか。彼女の彫刻では、素材の鉄は上昇や浮遊を感じさせ、中空を目指しているように見える。そして、軽やかさというおよそ鉄本来の素材に似つかわしくない性質を与えられている。このことは、重力に反して高くあることのみに存在意義があったエッフェル塔と、装飾性によって鉄本来の無機的な性質を制圧したアール・ヌーヴォーに共通しているように感じられる。青木野枝の彫刻は、鉄を手中に収め、技術としても芸術としても自由に扱うという19世紀の夢を、新たな形で蘇らせているのである。
このような鉄の軽さと装飾性という青木野枝の彫刻の特徴は、20世紀の金属を用いた彫刻、つまりミニマリズムを参照したとき、より明確になる。ミニマリズムの代表者であるドナルド・ジャッドの彫刻は、工業用のアルミニウムや銅などでできた部分がいくつも「スタック」され、極めて重々しい塊を作り出している。批評家のマイケル・フリードはミニマリズムの彫刻を、場に依存し、鑑賞者を想定しているという点で「演劇的」であると指摘した。この指摘通り、ジャッドや、あるいはリチャード・セラの彫刻は、展示会場で大きな場を占め、物理的にも鑑賞者を圧迫する。
一方、青木野枝の彫刻に関していえば、展示室でボリューム感を発揮している作品は鉄の彫刻ではなく、むしろ紙と布でできた彫刻《曇天》である。鑑賞者を圧迫するのは金属ではなく、軽い布と紙であり、しかも重々しい黒や褐色の彫刻はなく、白いオブジェである。この事実は、ミニマリズムの彫刻に対して、20世紀彫刻の別のあり方を突きつけているようにも感じさせる。