双極性障害の私が司法試験に合格する話(322)神様に手を合わせてみた。
私は、普段、神社には行かない。初詣もしない。
実家がゴリゴリの神道であり、神様に手を合わせることを強要されるのがいやだったり、一部の宗教に対して批判的な態度をとったりしている人が身近にいたので、なんとなく、神社から遠のいていた。というか宗教的なものとは距離をおきたいと常々思っているところがある。
今朝、毎日の日課である朝散歩の途中、なぜだか、毎日前を通る神社に吸い寄せられるように入った。偶然、宮司さんがいらっしゃり、お祓いをしだした(失礼な表現でごめんなさい)ので、引くに引けず、少しの間、手を合わせた。
すると。まさに、「無」というのを体感した。鬱にはマインドフルネスがいいと聞いたりして、本を読んでさんざん勉強したのに、まったく「無」の境地に至ったことがないのに、一瞬で「無」になれた。
その感覚がなんとなく気持ちよく、体が軽く感じ、最近の私のテーマである「蝶になる」という感覚はもしやこれじゃないか、という気持ちに至った。試験の合格を祈るとか、誰かの幸せとか健康を祈るでもなく、「無」だった。
その「無」が一体何なのか、わからないまま、でも気分良く帰宅。
メールを開くと、ミニチュアちいさんから、この記事を紹介するメールが届いていた。
ここに答えが書いてあった。
私なりの解釈というか、考えだけど。神様は、天の上とかどこか遠くにいるのではなく、自分自身の中にいる。だけど、それは自分自身ではない。誰のものでもない。・・・・・・うーん、なんといったらいいか、混乱してきたけれど、自分の中でははっきりしてる。説明をすっとばして結論だけ言うと、その「無」が神様なんじゃないかと。
幼い頃からなんとなく、神様を、亡くなったご先祖様だとか、この世界を牛耳っている一番偉い人、みたいに思っていたので、憎むこともあったし、いつのまにか、神様なんて、と手を合わせることをやめていた。
宗教の歴史や内容をしっかり勉強されている人からすれば、私のはトンデモ解釈だろう。でもいい。自分の感覚で、それでいい。だれかに強要もしない。
とにかく、自分を受け入れる、とか、流れに身を任せるとか、すごく難しく感じていたけれど、「無」を体感したことで、ぐじゃぐじゃになっていた糸が、すいすい解けていくような感覚がある。
宗教とかじゃなく、私自身の生き方として、「蝶になる」ために、あの神社で手を合わせることをこれからも続けてみようと思う。
そして、そんなGOODタイミングで、この記事をシェアしてくださったミニチュアちいさん、すごい・・・何者なんだろう(笑)この場を借りて、いつもありがとうございます。