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双極性障害の私が司法試験に合格する話(29)引っ張られる腕が痛い。

 ちっちゃい頃、私は、世界平和の方法をずっと考えて心病むような子どもだった。

 歳を重ねて、そのことを考えることが辛く、楽に生きる方法を探したりして「ただ目の前の当たり前を大切にすればいい」「自分の幸せを大切にしよう」みたいな生き方を見つけ、最近はできるようになったんだけど。でもそれはどこか、どうしても満たされなくて。なんか、違うと思っていて。

 結婚して、ただ平穏な毎日を過ごしてみたけど、それも違って。就職して安定した給料で暮らすのも違って。だけど今は、その最中にいて。自分をどこかに向かって走らせなければ気が済まないようで、司法試験というのが自分の中のそれであって。明らかに、机に座っての勉学は私に向いていないのはわかっているけど、自分が浸かってしまった平穏から抜け出したく、今の自分の世界を変えたくて、司法試験に向かってるんだよね、って思ったりして。

 というのも、『ナイロビの蜂』という映画を観て、幼い頃の自分の感情と、この映画に出てくる活動家の女性テッサが重なって。私ってこうだったよなって思い出して。

 でも結局、殺されてしまうし、最愛の夫もその後、死んでしまうし、自分が動くことで人の人生まで変えてしまうんだっていうこともまた、怖く。私は何もできずに動けないでいるんだった。って思って。

 変えたいのに変えたくない。壊したいのに壊したくない。守りたいのに守らない。自分がどこにいるのか本当にわけがわからなくなる。小さい時の自分が、大人になって楽に生きたい自分の腕を引っ張ってくる。「いつまで休憩してるの?早くやらなきゃ。まだ考えてるの?まだ答え見つかってないの?ていうか、本当は考えてないでしょ?やってるフリしてサボってるでしょ。もう待てないよ。こうしてるうちにどんどん死んでいるのに。よく、平気でゴロゴロしていられるよね。」

 やっぱり私は、普通の快適な生活とか幸せとかそういうのは向いていなくて。闇に向かって走りたい生き物なんだと思う。こんなに今、整った環境で幸せなのに居心地悪いんだもん。

 自分に何ができるかわからないし、わからないから死んでしまいたくなるけれど、死ぬなら、命かけてテッサみたいな正義を追求した故に殺される死に方が私の中での正解だから。ここぞというときにとっておかなければと。

 だから、ご飯食べるの面倒だけど、バナナをやった。命かけるところで、かけきれるように。

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