双極性障害の私が司法試験に合格する話(310)努力の価値を体感する。

努力。

私が一番わからないもの。

努力ってどこからが努力なのか。努力を経て達成したことと、努力なしに達成できたことと何か違うのか。努力が大事と言われても、努力の正体がわからなければ、当然、その方法さえ私にはわからなかった。

私は、なんとなく、何でもできる器用さは持っていると思う。正しく言えば、苦手なことから逃げることをして、そこそこできることだけ選んで、さも、何でもできるように見せかけることができる能力。そんなこずるい能力を持ち合わせてしまっている。これはこれで私の良くも悪くも個性なはず。

だけど、そんな自分を私は好きになれない、というか、そんな自分に飽きてしまっていた。

この人生をかけて、なにか、成し遂げたといえることを持ちたい。

それで、自分が逃げてきた最たるものの中に君臨する最難関に挑戦している。

今、私は努力をしている。少なからず、生きてきた中で、感じたことのない苦しさや悔しさを抱えながらも、それでも毎日少しずつ前進している。だけど、この努力が正しい努力なのか、それはわからない。この努力が正しかったということを表す一つの指標が、司法試験の合格だ。

だけど。

それひとつじゃない。

司法試験の合格にこだわりすぎて、視野が狭くなっていた。司法試験に合格しないからといって、この努力が間違っているなんて、そんなはずはない。ここまでしてきた努力はきっと何かをするときに役にはたつんだろう。もっとほかにもっと簡単に、自分の能力を生かせる場所はあるんどろう。だけど、一生、これが努力に値するのか、この努力が正しいのかを疑いながら、努力をすることになると思う。だとしたら、努力の天才には私は一生叶わない。なにかをあきらめながら生きることになってしまう。

だからこそ司法試験なのだ。

私は今、多分、きっと、努力を体感している。でもまだ努力がどれだけ素晴らしいものなのか、それを知らない。だから毎日、努力をすることの価値に対して、少なからずの疑いを持ちながら、努力をしている。ここまで苦しんだ先にあるものは、この苦しみを凌駕するほどの価値があるのか。

私はこの人生で、努力の価値を体感してみたい。

体感できたなら、そしてそれが価値あるものだと思えたなら、その先の人生はもっとすばらしく価値のあるものになるだろう。努力に価値がないとしたらその逆も言えるのかもしれない。

だけど、どちらにせよ、その判断は、努力をしきらないとわからないことだ。

少なくとも、司法試験合格は、価値あるものだ。

努力をして、そこに到達できるのなら、こんなに素晴らしいことはない。とはいえ、所詮、資格。人間が作った枠組みでしかないし、しかも、それを用いて、自分が労働しなければ報酬は手に入らない。だけど、私に足りないものが山ほど詰まっている。それが、努力をして手に入れたという自信。

ただそれだけのために、私は今日も努力をする。

正しいのか正しくないのかもわからないまま、ただ自分だけを信じて手を動かす。


いいなと思ったら応援しよう!