双極性障害の私が司法試験に合格する話(348)私は私、の意味。
私は私。
当たり前のことなのに、私はそれをよく見失う。というか、認められたことすらない気もする。
いつも見守ってくださっているnoteフレンドのちいさんから、昨日の記事にこんなコメントをいただいた。
私は私と安心できるようになるといいね。
ハッとした。よくわからない漠然とした不安、それに苦しんでばかりで、どうやったら、安心して心地良く暮らせるか、そのために、勉強を頑張っているところもあるんだけれど。
安心の対象を、自分に向ける、ということ?安心を外に探していたけれど、安心は自分の中にある?
この解釈が正しいかわからないけれど。もしそうだとしたら、その発想はなかった。こんな自分だから、ダメなんだ、成長しなければ、いつもそう考えていたけれど。今の自分を認めてあげられたら、こんなに苦しむことはないのかもしれない。だけど、今の自分に認められることがあるか?とも思う。今の自分は、全くもって安心の対象ではない。
だけど、確かに、私は私、と認められたら、どんなに楽か。そしてある意味、その方が強いのかもしれないとも思った。
結局、私の苦しみは、理想の自分と現実の自分の乖離からくるものなのは、わかってる。だからこそ、頑張ろうと思うし、それが生きるモチベーションでもあったりする。だけど苦しい。
いつも自分は敵で、その敵と戦っている感じ。ひとりぼっちで戦っている。戦えば戦うだけ、自分を攻撃しているから、ダメージがある。人を殴ると自分の拳の方が痛かったりする、みたいな感じで。
だけど、そうじゃなくて。私は私、と認めて、ちょっと変な言い方だけど、私は私と一緒になって、戦う方が圧倒的に強い。ひとりじゃない、二人だから。
敵は、自分じゃない。
敵は、このよくわからない不安だ。
このよくわからない不安を排除するつもりが、自分自身を排除しようとしてたかんじ。うまく言えないけれど、虫歯を削るつもりが、大事な元気な歯まで削られちゃう、みたいな。
ここまで書いてて毎度の如くだけれど、よくわからなくなってきたんだけれど。
とにかく、私はいつも、私を過信している。その過信した幻の私を追い求めて、今の私を攻撃してる。それが苦しみの根本なんだと思う。
私は私。
私自身と手を取り合って、そうやって、社会の荒波と戦えばいい。こんな私、だからこそ、私自身が私を認めて、できなかったことをできるようにしていって、そうやって自信をつけていけばいい。
戦う相手を間違えていたようだ。
私は私だから、安心して。ひとりじゃない。
現実の私を置いてけぼりにしていたけれど、現実の私こそが、私が唯一持っている武器。これを使わずして、素手で戦いに行ってボロボロになって帰ってきてた。
私は私。安心して。
何度も自分に言い聞かせよう。忘れるな。
私は私。