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双極性障害の私が司法試験に合格する話(70)少し前の自分が別人みたい。
あの過呼吸だった私はどこいったんだろう?
休職することしか頭になかった私はどこいったんだろう?
死ぬことばかり考えていた私はどこいったんだろう?
笑っちゃうくらい鬱の時の自分が自分でない。あの時は、気分は悪くはなかったんだけど、身体が悲鳴をあげてた、しっかり鬱期だったんだと思う。
で、今、めちゃくちゃ躁。
疲れてるのに眠れない。やりたい事が次から次へと湧いてくる。(勉強のことばかり)
頭の片隅に、「鬱の自分を忘れないようにね」って注意書きを貼っているけれど、ほとんど見えていない感じ。
安定ってくるのかな。こないんだろうな。一生これなんだろうな。
仕事もとても楽しく。ちょっとした事を学びに感じてグングン吸収する。身体が疲れてても、むしろその疲れが気持ちよく、さらに疲れさせようとする。だから、躁の時の自分はとても自分自身の理想に近い。
だから、その分、鬱の自分を軽蔑する。鬱の自分を好きでいられるように、とか、そんな事を頭で考えるんだけど、実際はそんなことすら考えられないのが鬱。目の前が真っ暗で、常に誰かから何かから(ちょっとしたホコリとか風とかにも)攻撃されているように感じて。自分に関わる全てのことが無意味に感じて、だから自分を消したくなる。だけど死に向かう衝動的な行動に走るほどの元気もないから、生きてしまっている。だから生きる事を良しとするならば、私の鬱は上出来なのかもしれない。休むのが下手な私のために与えられた強制的な休み時間なのだけど、あまりに社会にはそぐわないタイミングで訪れるし、お尻の見えない休み時間だし。よほど、鬱状態の時の方が、人生っぽいのかもしれない。終わりが見えないからね。
だとしたら。鬱を私の人生のベースと考えるとするならば。基本は全てが無意味となる。そして、基本、私は何もできない。成長とかもない。
ただ、出会う人やモノによって、変化があるように見えるだけ。人に憧れ、理想を持って、それに向かって背伸びしてるだけ。
それで別人になった気がして自分を忘れる。それで、本来の自分を久しぶりに見た時に、優秀な他人になりきった私は、本来の自分を「何もできない、成長なんてしない」と馬鹿にして、その矢が自分に突き刺さる。
朝3:30に目が覚めて、少し勉強をして。今、躁だから、また鬱くるんだなぁ、って怖くなって、躁鬱の自分を振り返ってる。
多分後から見返したら意味不明だけど。今、湧いてきた言葉は、吐き出しておかないと。滞留したらそれがまたストレスになるから。
せっかく早起きしたのだから、勉強机に戻ろう。
あ。
自分を愛す、とかよくいうけれど。
多分そういう高尚な言葉は私には馴染まない。
卑下するのが得意なのだから、とことん、常に、自分を卑下しておけばいい。
不得意な愛を自分に注ごうとするから、いびつに不自然に鼻が伸びて、元々脆い上に予期せぬ時に折れてしまって、絶望する。
私は何もできない、成長なんてしない。
全部無意味。
それを忘れない事。
それで幸せか?
私には幸せとかそういうのもない。
無意味の私がただ無意味にここらへんを漂ってる、ただそれだけのこと。
向かう理想は、無意味な人生を無意味だと納得できるようになるってこと。でもそれって多分、死ぬ事なんだとも思う。
今はまだまだ、他人の理想を追っかけてる。
でもそれが多分、生きてるって事なのかも。
ほらまた意味を探してる。
やっぱり、私は何もできない、成長なんてしない。