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双極性障害の私が司法試験に合格する話(75)なんでこんなこと書いてるのか。

よく、なんで、note書いてんのか、よくわからなくなるんだけど。自分なりの答えは持ってて。それをよく忘れがちで、SNSを全部消したくなる衝動に駆られるので、書いとく。

推敲もしない、人に読んでもらう気遣いなど何にもせず、ただ殴り書きをしているだけの、文章というには失礼すぎる散らかった文字の塊。

「SNSにアップするからには、誰かに見て欲しいわけでしょう」と自分で自分に思うも、実はあまり見られたくなかったりもする。ほとんどフォロワーのいないTwitterでシェアしてた時期もあるけれど、やっぱり見られたくないからやめた。なんならTwitterやっぱり辞めた。SNSを消す症候群で私はFacebookもTwitterも何度も消してきた。見られたくないなら、誰も見られない日記に書けばいいじゃない、とも思うんだけど。どこかで、誰かのためになりたいという承認欲求みたいなのがいる。ださい。

だけど、誰かのために何かをできるほど立派な人間じゃないし、いつか役に立てる日が来るかもわからない。それならば、もう今の私で勝負するしかないじゃん。誰かがこれを読んで、なんかなんでもいいから、なんかの気持ちになったらそんな嬉しいことはなくて。だけど、誰よりも、この文章とも言えない文字の散らかりをみて、救われているのは自分自身だったりしてる。自分が救われているから、少なくとも0ではない。1ではある。

自分の存在について、基本的には常に否定的で、いつでも死んでいいと思っていて。なにをどれだけ努力しようが、無意味だと思ってる。でも、これは、私にとっての肯定でもあって。無意味だと思えるからこそ、こんな恥ずかしい文章をアップできるし、下手くそな絵も描くし、人前で芝居もしてきた。

環境問題とかで、地球のためにできる事を!とか言ってる人の話を聞くたびに、わたしにはその訴えが「死ね!」と聞こえる。私が生きてるだけで、いろんなものを消費してく。電気もガスも水もどんどん使われて汚いものが排出されていく。それの積み重ねによって地球がダメになっていくならば。人間なんていない方がいいじゃないか、と結構本気で思います。それでも強く生きたい人がいるのだから、強く生きたい気持ちのない私が率先して死ぬのがいいよなって。それだけど、どんな死に方が迷惑かけなくて済むのかを考えてダラダラ生きてしまっていて。そんな中で、好きな人と会えたり、いい映画を見たり、寝起きが気持ち良かったりすると、都合よく、死ぬ事を考えるのをやめてしまうので、その結果が今です。

だけど。

この日記のゴールは、ここに、2025年に「司法試験合格しました!」って書くことなので。それまでは、辞めない。

で、結局、なぜ、誰もが見れるところでこんなこと書いてるかって言ったら、そんなださい自分を見て欲しいという、気持ち。恥ずかしがり屋でありながら目立ちたがり屋でもある自分の舞台として、noteはマッチしてる。

2025年に司法試験に合格する過程を見せる中で、私、やりました!という証になって、自信にしたいわけで。そのために、誰かに見ていてもらいたいっていうしょうもない欲求なので。

だから、一人の日記じゃダメで、誰かが見てるnoteじゃなきゃダメなんです。

だから、これを読んでくれてる人に直接感謝は伝えられないけれど。見てくれてありがとう。

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