神社の娘に依る《絵馬に願ひを!(FE)》Full Edition発売に改めての考察「狼楽大社」
ついに、Sound Horizon『絵馬に願ひを!Full Edition』が出ましたね。
私も、もちろん予約して聴きまくりましたよ〜
と、いうことで。
箝口令中ですのでそこに気をつけつつ、リアル神社の娘ならではの考察材料を投下してゆきたいと思います。
と、その前に。
上記のマガジンに
プロローグエディションが発売になった際に、神社に関係する基本的な部分の解説なんかも色々書いたものを纏めておりますので、良ければご覧ください。
私はアプリ版はやっていないというか、ブルーレイ版ですら手水舎の記憶を全然聴けていなかったというか、半分も楽曲を楽しめていなかったかもしれないと今更気がついたクチですので^^;
上記での「星空へと続く坂道」の考察で
と書いていますが、いやいや単に、右に石長姫子ルートがあったのを知らなかっただけでした、というオチでした(笑)
狼楽大社
私はコンサートで初めて石長姫子ルートを体験したので、石長姫来たか〜と思ったのですが、石長ルートの神社の社名が狼楽大社でした!!
これを聞いた瞬間思ったのは、「大社と言えば出雲よね?!」
ここで以下のことを書いているのですが、
わざわざ捌拝捌拍手を求めてきているのがもう、怪しさMAXです。何故なら特殊な神社以外ではそんな拝礼しませんので。
に重ねてわざわざ社名を「大社」にしてきているのにやっぱり出雲大社の正式な「肆度拝」はちっとも求めてこない能楽関係者・・・。
社名にはルールがあります。ざっくりと書きますが。
「神宮」は伊勢の神宮のみを、「大社(おほやしろ)」は出雲大社のみを指します。
「○○神宮」は御祭神が天照大御神など天津神となる、規模の大きな神社
※ちなみに小規模の神社では神明社となるケースが多いです。
「○○大社」はその土地に祀られた由緒ある規模の大きな神社(私の勝手なイメージで国津神を祀る神社が多いかなとかなんとか)
「○○宮」はその御祭神をその地域に勧請される大元となった規模の大きな神社。
「○○神社」は上記の神社から勧請されてお祀りされた神社になります。
色々書きましたが、拝に言及されていたことに鑑みるに、《絵馬に願ひを》を聴く上では一行目の知識だけあればいいかも。
ついでに、佐久夜姫子と石長姫子の「狼樂神社」「狼樂大社」の差分について。
石長姫子、神社の作法完璧でしたね。
昨今のお賽銭問題にまで触れていただいて、リアル神社関係者(笑)としては本当に有り難い限りですRevo陛下!!!
いや、これ本気で洒落にならないんですよ、1円とか5円とか大量に賽銭箱に入る行為がぶっちゃけテロとしか思えない感じの世知辛い金融機関の仕打ちに泣いていますから本当に収支マイナスってナンデスカ。
石長姫子の方のお父さんはLostしてましたね。
これに関してもめちゃくちゃ考察頑張りました。辻褄が合わないところがNeinの
光の改竄のヒントですね。これについては、また別途書きたい所存です。
佐久夜姫子のときは、悩める人々の願いを奉れば必ず叶えるよって親切な感じの神社関係者でしたが、石長姫子のときは「現金」とか「ラッキー」とかなんだか不穏。そして、個人的に引っかかったのがパッケージ裏面にも記載された
「此の願ひ、神よ訊き給へ!」
だって、プロローグの時は
「其の想ひ、神に奉れ!」
でしたよね?
プロローグの時は神社関係者の発言っぽかったですけれど、今回は参拝者の発言じゃないですか。
ちょっと違和感なんですよね。
祝詞の話
ここでちょっと祝詞的な側面から違和感を。
★掛けまくも畏き ・・・ 恐み恐みも白さく
これ、祝詞の決め台詞なんですけれど、祝詞部分でめちゃくちゃ神を敬い奉ってるんですよ。まぁ祝詞って基本かういふものなので^^;
で、ですよ。
なのに突然
★神よ、訊き給へ!
と言っちゃう訳なんです。
この、「ききたまへ」という表現は、祝詞の中で用いる場合には、
KASIKOMIKASIKOMI
という言葉をめっちゃ盛って使うんですよね(もしや紫青の参道でめっちゃ盛ってるからいいのかな(笑)
もしも神に対して敬いの姿勢を見せるのであれば、プロローグの時のように神社関係者側から奉るように声かけをする方が自然ですし、参拝者側から敢えてこれを言わせるということは・・・
で、これにも意図があるのではないかと私勘ぐりました(笑)
石長姫子の言葉の中に
「大切な願いを人任せにするような軽率なことをして(意訳)」
みたいな発言があったと思います。
あれ、ほんとうに大切な話だと思います。神社の娘だからこそ敢えて言いたい。
この、《絵馬に願ひを》には本当に様々な製作者(Revo)の想いが込められているのをひしひしと感じました。生きること、死ぬこと、登場人物に乗せて様々な葛藤が描かれていました。
神社の娘だからこそ、感じることがあるんです。
神は人の願いを叶えたりするような都合の良い存在でもないし、バチを当ててきたりするような畏怖すべき存在でもない。
以前神社の正体について書きました。
神社には、一般的な宗教に必ずあるような教義や経典が一切ありません。
ちなみにこの《絵馬に願ひを》は日本の神話を知っていると結構楽しめる作品ですが、その解説は素晴らしい考察をされるサンホラーの皆さんにお任せしようと
思っています。
神社の娘だから、神主だからといって、必ずも古事記や日本書紀を理解していなくてもよい、あれは経典などではないからです。
※いちおう勉強はさせられましたが(笑)
こうしなさいと他者に強制することは浅ましい、とRevoさんが先日の公演の中で話されていました。
(ちなみに、「だが、それもいい」と某漫画の玉壺みたいな発言もあったw)
私は手水舎で出せていない曲もありつつ、true endにはたどり着けたと思います。
絵馬に願いを書いてつるせば、それを解釈してその人のゆく先に干渉をする。
それが、狼樂神社であり狼樂大社の大神と巫女の責務である。
神頼みをするときには、叶ったらラッキーかな位の気持ちで、まさかそんな風には思わない訳ですが、自分以外の存在に願いを預けると言うことは、
「干渉されることを了承してしまう」
とも言える訳で、そう考えるとゾッとしませんか?
その願いは誰の願い?
その願いは誰に返る願い?
選択する大神(こちら)は、願主の結果なんて痛くも痒くもないとしたら。
公演では、願主のキャラクターたちが曲目の終わりに
「そこで見てるんだろう? 人の人生を玩んでそんなに楽しいのか?」
と客席に対して凄んでいました。
そして、大神たちに自分の人生の行く末を選ばせてしまったのは、絵馬を書いた願主本人でもあった。
だからこそ
「此の願ひ、神よ、訊き給へ!」
なのかなと思った訳です。
だって、私たちは無意識にこの地平線の登場人物たちと同じことをしているのですもの。
自分の人生を、誰かの価値観に委ねる。
一般常識に委ねる。他人の顔色に委ねる。絵馬に委ねる。神に委ねる。
※追記
もう一つの可能性は、神に聞き給へと言っているのが能楽関係者だとしたら。。。
諸々から、個人的に能楽関係者の正体はイヴェールだと思っています。神社関係者は違う人物だと読んでいるのですが。
いや、はじめは狼面は西洋骨董屋根裏堂の前で倒れたノエルかと思ったのです。これが相応のお代が支払われた結果なのか?! と。
これも、考えるに至った材料があるので後日書きたいなと思うのですが、であればこの狼樂神社/大社の神社/能楽関係者(笑)にこそ、叶えてもらいたい願いがあるはず。それこそが今回導き出されるべきTRUEEND。
私の脳内には、朝と夜の物語のあのフレーズが渦巻いているのでした。
★絵馬の書き方
ここまで書いておいて、じゃあ絵馬なんて怖くて書けないじゃないか!
と思いませんか? 私は思いました(笑)
オススメの絵馬の書き方があります。
神に丸投げをしないこと。
自分の"楽しい"のために書くこと。
「こういう風にしたら楽しいだろうな」
という宣言を絵馬に書くということ。
ちなみに、誰かに叶えてもらう訳ではないので住所や名前は省略して結構です(笑)
例えば、私が犬彦だとして、鈴のために絵馬を書くとしたら!
「スズと俺の幸0304な生活を大切に過ごすぜ!」
みたいな感じです。
大切な家族の鈴の病気も、結局命の尊厳だと思いました。
”縁側で静かに息を引き取ったスズの記憶”って、多分犬彦の改竄される前の元の記憶なんじゃないかなと思うんですよね。
無理に延命したスズよりも安楽死させられたスズよりも、犬彦の膝の上で看取られながら命を終えたスズで良かったよねって、私は心から思ってしまいました。
いろんな価値観や考え方があると思いますけれども。
ちょっと後半は主観がだいぶ入った内容になってしまいました。
ちなみに、石長姫子が神社の境内で育てていた植物は、使い方は多分ぜんぜん違う訳ですが神社とめちゃくちゃ関係が深いもので、特に伊勢nおっと今日はこの辺で寝ようと思います(笑)