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この庭はいったい誰のもの?

庭で猫がニャーニャー鳴いていた。

窓から庭を覗くと、子猫の頃からそこら辺でよく見かけていた猫だった。

この猫がうちの庭に来るのは珍しくて、いつも違う野良猫が庭をトイレに使っており、特に夏場は庭があっという間に牛小屋の臭いに早変わり。
コバエも飛んで、不衛生極まりなくなるため長い間悩みのタネだった。

この猫は毛並みも綺麗で、近所の飼い猫とばかり思っていたけれど、庭に出てみて気がついた。
私に懐っこく近寄ってきた猫の耳は、ハート型にカットされていた。
サクラネコだった。

飼い猫でも、外飼いしてたら今の御時世サクラネコにされるのかしらと思ったり、でもこの子は実は野良猫だったのかと驚いてみたり。
近所に、地域猫を面倒見ている人が居るのかなと思ってみたり。


サクラネコは耳を切られて居るけれど、耳だけではなく身体にもメスが入っている。

何故このようなことになるのかと思ったけれど、答えは明確で、猫を殺処分させないためだ。

家の庭のように、野良猫にトイレにされる家の人は高確率で猫を憎んでいると思う。
猫が好きな私がそれでもウンザリしたのだから、猫に興味がない人にしてみたら、庭の清潔を保つためなら猫の命を奪うことなんて迷いもないのではないだろうか。

野良猫だからそうなるのであって、サクラネコとは、そんな野良猫を増やさないための地道な活動だ。
進撃の巨人で出てきた、エルディア人安楽死計画と同じ理屈になる。


だけど私はそもそも思う。
この庭はいったい誰のものなのだろう。

私名義の庭だと思い込んでいるけれど、それは人間だけが読める書類の上での勝手な思い込みに過ぎない。

自分の庭だと思っていても、知らぬ間に許可した覚えのない鳥が飛んできて、許可した覚えのない草や木が生えてくる。
ここは地球上のすべての存在が等しく使える場所だというのが、正しい認識になる。

庭の木にとまる鳥

そして私は、勝手に生えてきた花に目を楽しませてもらい、朝方綺麗な鳥のさえずりに耳を楽しませてもらう。

良いことだけ享受して、都合の悪いことだけ排除しようとする。

何故、人の命は奪ってはならないのに、その他の生きものは平気で命を奪うのか。
何の権利があって、自分以外の命あるものの尊厳を踏みにじるのか。


ふと、そんなことが布団の中で込み上げてくる。

私はサクラネコだ。
自分がサクラネコだから、サクラネコの気持ちを思うと切なくなる。

ほんのちょっと、多くの人と形がちがうというだけで奇形と診断され、親に泣かれ、手術を受けさせられて私の身体には何度かメスが入った。

命に関わらない、ただ形状が少し違うだけで、私の健康な身体にはメスが入っている。

私の拒否は受け入れてもらえなかった。
ただ、訳もわからず身体を切り刻まれた。

この悲しみが、サクラネコの境遇にふと同調する。


この世界は異常だ。
人が人を裁いたり、人が他の種族を裁いたり、存在という尊厳に気がつくこともない人で溢れている。


鳥は気ままに空を飛び、樹の実を喰み、虫は気ままに翔び這い過ごす。

人だって気ままに息をして過ごせばいいものを。


サクラネコは、私に身体を擦り付けたあと、庭に座って寛いでいた。

私はそっと立ち去る。

今この庭は、この猫の庭だからだ。